少年晩夏

作/江端 忍(えばた しのぶ)






「言うんじゃなかったなあ。一人で行くなんて。」
 亮介は上野駅のホームでつぶやいた。
 駅は、勤め帰りのサラリーマンや学生たちで混み始める時間であった。どの顔も人のことなんかお構いなしで、無表情に黙々とただ黙々と歩き、急ぎ、並んでいた。外は夕焼け色に染まり、夕日がやけにまぶしかった。
 

 小学五年生の亮介にとっては、こんな時間に列車に乗るなんてことはめったにない。たとえ乗るとしても両親やほかの大人たちといっしょだ。
 だが、今日は一人である。上野のおばあちゃんの家に届け物をして来た帰り道だった。
 本当は一人で来るはずではなかったのだ。本当は。ただ、「一人で東京に行く」。このことが亮介の心を妙にくすぐったのだった。明日学校に行って「一人で東京に行った」話をすれば、きっと同級生は驚き、感心し、ぼくのことを大人だと思うだろう、と考えたのである。
「おかあさん、僕がいってくるよ、おばあちゃんち。」 
 言ってしまったひと言が亮介を後悔させていた。
 

 ホームに列車が滑り込んできた。多くの大人たちにもまれながら亮介は列車の中に連れ込まれた。ほぼ満員だ。人いきれがすごい。 列車は上野を出た。そして、駅に止まるたびに乗客を次々と飲み込んでいった。さらに混雑は増した。
 上野で席に座れなかった亮介はずっと立ちっぱなしだ。周りの大人たちがどんどんふえてきた。外も夕闇に包まれてきたようだ。
 だんだん気持ちが悪くなってきた。
 スーツを着た中年のおじさんや、化粧のにおいのきついおばさんたちに囲まれてしだいに息苦しくなっていくのを感じていた。
「これが通勤ラッシュなんだ……。」
 頭の中で考えながら、亮介は気持ちが悪くてしかたがなかった。しかも暑い。亮介はもともと乗り物に強いほうではない。遠足のバスに乗るときもいつも酔い止め薬を飲んでから乗るようにしている。
 息づかいが荒くなってきた。
 周りの大人たちの顔はむっつりしていて、父の書斎に飾ってある恐ろしい能面のようである。誰一人として自分のことなんか見てはくれない。亮介は、世の中でたった一人であるかのように孤独だった。
 鉄橋を渡っているのだろうか。金属的な音がして足の裏に響いてくる。遠くにみえる家々やマンションの部屋の明かりがやけに温かそうに、そしてうらやましく見える。
「ああ、家に帰りたい。」
 亮介は心底そう思った。早くこの状況から抜け出して、家に帰りたかった。そうしているうちに気持ち悪さはピークを迎え、このままでは途中下車しなければならないほどになってきた。暑い。苦しい。気持ち悪い。何とかしてくれ……。
 ちょうどそのときだった。

「ボク、大丈夫かい。気分が悪そうだけど。」
 亮介のすぐ前に立っているおじさんが声を掛けた。
「えっ、はい……。だいじょうぶです……。」
 亮介は消え入るような声で答えた。
「だいぶ汗をかいているな。ほら、おじさんがすき間を作ってやるぞ。おじさん、力持ちだからな。」
 おじさんは腕と背中に力を入れて、亮介の前に空間を作ってくれた。そこだけ空気が通り、スッと気持ちが落ち着くのがわかった。
 おじさんはさらに続けて周りの人たちにも呼びかけてくれた。
「おーい、この子、気分が悪いんだそうだ。少し間を空けてやってくれないか。」
 周りの大人たちは事情をすぐに察したらしく、亮介の周りには広い空間ができた。
また、何人かはすぐに声を掛けてくれたのだ。
「ボク、汗をかいているわ。さあ、これでふきなさい。」
「バックをおろして。」
「こっちの席に来て、座りなさい。」
 たくさんの大人たちが優しくしてくれた。亮介は、
「ありがとうございます。ありがとうございます。」
と何度も何度も小さな声でいいながら、太ったおじさんが空けてくれた席に腰をおろした。気分がだいぶよくなった。
 席に静かに座っていると、胸のあたりのつかえもとれてくるようだ。助かった。もう大丈夫だ。ありがとうおじさん、おばさん。
 すると、さっきまで能面のようだった大人たちの顔が何とも優しく、思いやりにあふれた顔に見えてきた。大人ってすごいな、ありがたいな、と感謝する気持ちになった。
 孤独な気持ちはどこかに失せていた。まるでこの列車の中の人たちが自分の知っている人ばかりのように思えてきた。
 しばらくして、列車は、亮介の降りる駅に近づいてきた。亮介は席を立ち、できるだけその辺にいる人たちに聞こえるように、
「どうもありがとうございました。」
と言い、ぺこりと頭を下げた。それが亮介にできるせいいっぱいのことだった。
 

 列車は駅に着いた。
 

 亮介は、降りるときにも頭を下げ、お礼を言った。どのおじさんとおばさんが声を掛けてくれたのかよくわからなかったが、とにかくお礼を言った。ホームから眺めるとあたりは真っ暗になっていた。亮介の頬をなでる風が何とも心地よかった。ほっとした。そしてありがたかった。亮介は、目の前を通過し、何ごともなかったかのように遠くに走っていく列車の姿をいつまでも見つめていた。


《おわり》





comment



この「少年晩夏」は、満員電車の中の一場面を切り取りました。
幼い日に誰もが経験したであろう孤独感や焦り、
そして大人を見直した気持ちなどを表現してみました。


Story & comment by 江端 忍



Back