ツカサ

                    作/キリン




いつかこの話を、誰かに伝えたい。
そのために、俺は生きたい・・・。

気が付いたら、すぐ近くから、母さんの声が聞こえた。
「・・・カサ、ツカサ・・・。聞いてる?ツカサ・・・」
?母さん?
なんだ、その、変な声は。ん、あ、また父さんと喧嘩したのか?いや、それにしては
・・・。
すぐに俺は、自分の異常に気付いた。
母さんは、しばらく俺に話しかけてたみたいけど、内容はよく覚えてない。
俺は、驚いた。
よくわからなかった。
何日か経って、やっと少し、わかった。
・・・。
言葉にならない恐怖だった。
その頃の、俺の半狂乱を、なんとかまともに保っていたのは、見舞い客の、まるで独
り言のような・・・、そう、まるで壁に向かって話しかけるような、そんな声だった。
もちろん俺は壁じゃないが、それでもよかった。
誰かの声を、聞いていたかった。
誰かに話しかけてもらいたかった。

最も近い言葉で言うなら、俺は、いわゆる植物状態になっていた。
見えない。話せない。匂わない。体の感覚がない。
でも、耳だけは聞こえた。いや、耳の感覚はない。
暗闇の中、耳の形をした俺が、宙に浮いているような。
そんな感覚だった。
ぼんやりと、音が鈍く聞こえる。特に、大きな音は聞こえない。
でも、それだけだった。
医師や母の話から、俺には微弱にだが、脳波があるらしい。だから、正確には植物で
はないんだそうだが、しかし現実は似たようなもの。その、唯一、俺を植物から否定
してくれる脳波も、反応というには、あまりにも弱いものらしい。

正直、これは現実じゃないと、今でも思うことがある。
でも、やっぱりこれが、現実らしい。

音だけでも、一日のサイクルは十分わかる。
ここが病院らしいこともわかった。
でも、何も変わらぬ日々、自分が石像にでもなったような日々を数えることは、三桁
に達する前にやめた。
その後も、見舞い客は日に日に減った。まぁ・・・、そんなものだろう。こんな、何
も変化のない病人と接するのは、根気のいることだし。
同窓会のように、思い出したように懐かしさを味わいに来る人は多い。
だから皆、俺の前では、いろんなことを話す。昔のこと、今のこと。
ここは懺悔の部屋だ。
それでもいい。
誰にも話しかけられなくなったら・・・、多分、俺は死んでしまうような、そんな気
がする。
だから、俺は皆に感謝している。
こんな俺の所に来てくれる。
ちょくちょく顔を出してくれる母に。
ちょくちょく顔を出してくれて、母を元気付けてくれる親しい友人に。
他愛ない話をしてくれる看護婦に。
俺は、感謝してやまない。

医師が言うに、ツカサの脳波は、夜と昼とでは微妙に違うという。
つまり、昼間は健常な人と同じく、起きているのではないか、というのだ。
ツカサの母、美代子は、ある日の昼間、パートを休んで、いつものようにツカサの病
室に来ていた。
「ツカサ。今日はね、嬉しいニュースがあるのよ」
暖かい美代子の声は、この一年で、更に柔和になっていた。
ある種の苦痛を受け入れたから、かもしれない。
「あのねぇ。ムツミの赤ちゃんが生まれたのよ。女の子よ。すごく可愛いのよ」
ベッドの上、一年前となんら変わらぬ息子の姿。美代子は椅子に腰掛けたまま、バッ
グから出したチョコレートを一粒、自分の口に入れた。
「ハルナちゃんっていうの。ムツミとジュンさんが、二人で考えた名前なんだって。
これでツカサもオジサンね」
もちろん、ツカサに反応はない。眠っているような表情。
「今度、ハルナちゃんも連れてくるって、ムツミが言ってたよ。よかったね、赤ちゃ
んだよ」
美代子にとって外孫だが、孫に変わりはない。嬉しさもひとしお。
美代子はその後も、いつものように、最近の出来事を、ツカサに話して聞かせた。

ツカサの父は高給取りだった。
だから、こんな莫大な入院費を払っていける。
父は、良くも悪くも冷徹な人だった。
そんな父に似ているとよく言われるツカサの心情は、その実、微妙だった。
ある日、ツカサのすぐそばで、美代子と若い医師と、ツカサの父とで、ちょっとした
口論があった。
安楽死について。
父が、そういうものがあるのかと、医師にたずねた。
美代子は猛然と怒った。
医師は二人の間に入るように、説明を始めた。
が、父の落ち着いた一言で、ハッとしたように医師は口を閉ざし、三人とも病室を出
て行った。
そして変わることなく、美代子や他の見舞い客が訪れる日々は続いた。

随分経ったある日、ツカサの叔父、達夫が、病室を訪れた。ツカサもよく世話になっ
た、気心の知れた男である。
達夫は、ツカサのベッドの横にある、もはや数え切れない人数が腰掛けたパイプ椅子
に、沈痛な面持ちで腰を下ろした。
ツカサの寝顔を見る。大分髪が伸びたか。数ヶ月前、美代子が整髪したきりだ。
「ツカサ・・・達夫だよ。久しぶり」
達夫は言葉を切った。
ある晴れた、春の日の午後。
「ツカサ。美代子さんが、亡くなったよ」
パタパタと忙しげに、ドアの向こうを行く看護婦の足音。
病室の窓の外、樹木の枝に雀がとまっている。その小さな瞳に、四角い窓の中、頭を
垂れる達夫の姿が映っていた。

ある日、ツカサの親しい友人、木村が、妻と娘を連れて見舞いに来ていた。彼らは二
週に一度はやってくる。
かつて、ツカサが木村に、特別な何かをしてあげたわけではない。
そういう友人なのだ。
美代子が事故死してからも、木村の見舞いは変わらなかった。
「よぅ。元気か? 木村だ」
「カオルだよ、ツカッちゃん」
「マナツだよ、ツカッちゃん」
5歳になるマナツがカオルの真似をする。
三人は、いつものように、楽しそうに話をする。木村やカオルがツカサに話を聞かせる。
 聞いてよ、ツカッちゃん。この人ったらねー・・・
 違うだろ、それは、しかたないことだろ
 んーん、あなたも悪いわよ
 そーよ、パパも悪いわよ
 いや、お前ら、そんな・・・
木村も脳波のことは知っている。だが、あまり気にしていなかった。脳波があっても
なくても、多分、木村は変わらない。
ひとしきり話をし、持参したお茶やお菓子を食べて、木村は立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ行くわ。またな、ツカサ」
「またね、ツカッちゃん」
「バイバイ、ツカッちゃん」
茶菓子の片付けをして、妻と娘を外に出し、自分も出がけに、
「早く元気になれよ。待ってるぞ」
木村はドアを閉めた。それは、いつもの言葉だった。

そうやって、月日は過ぎてゆく。
春夏秋冬。

ある夜。
俺はいつものように、いろいろと考えた。
・・・いったいどれくらいの年月が経ったんだろう・・・
たしか、俺がこんなになる前は、マナツちゃんは2歳くらいだったかな。
すごいよな、もうあんなに話せるんだもんな。
こないだ、ハルナも少し、話してたよな。
フフ、不思議がってたよな。なんで寝てるの、とか、寝てるのに話しかけちゃ駄目だ
よ、とか。いい子だよ。ちょっと引っ込み思案だけど。
母さんが死んで、もうどれくらい経つんだろう。
もうわかんないな。
あの時は、ひどかったな。
・・・でも・・・。
おかげで、何とかなった、ような気がする。
何もできない自分、泣くことも、叫ぶこともできないってことが、よくよくわかった。
あの頃は、ひどかった・・・。
でも今は、何だか・・・。

いつかこの話を、誰かに伝えたい。
そのために、俺は生きたい。
いつか、まともになって。
母さんの墓参りをして。
ハルナとマナツちゃんの手を握って。
木村やカオルさんと話して。
ムツミやジュンさん、達夫オジサンや・・・、父さんも。
みんなと酒を飲みたい。
そんで、全部話したい。
人が寝てる間に、好き放題言ってくれちゃって、とかさ。
きっと、楽しい。
だから俺、今、生きてるんだ、きっと。
・・・もしかしたら、一生このままかも。
いや、これが夢で、もしかしたらパッと目が覚めて、昔の俺なのかも。
もしかしたら・・・、明日、音が聞こえなくなるかも。
もしかしたら、俺、もうすぐ死ぬかも。
・・・フフ・・・
今更、何を失うものがある。
死なんざ、随分前に怖くなくなった。
もういい。
とにかく、生きてやるんだ。

誰にも聞こえぬツカサの叫びが、暗闇の中にこだまする。
それを聞くのは誰だろう。
聞いているのは、誰だろう。

<完>






comment


誰もが持ってる心の叫び、それはとても切なく歯痒く。
と同時に、優しく、誰かを包むことができる、と僕は思います。


<tt-kirin@nyc.odn.ne.jp>



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