** 旅人のノォト ** らい |
カラコロカラコロ。 ベルが鳴る。 喫茶店カラトルの扉が開き、ひとひらの雪と共に青年が舞い込んできた。 背中にしょったリュックサックが頭の上から飛び出るほど大きいので、一目で旅人だと分かった。 そのリュックサックのあまりの大きさに人声が小さくなったが、それもほんの瞬間で、何事もなかったかのようにまたざわめきが戻る。 テーブル席はどこもかしこもきっちりと人が詰まっていて、青年は諦めたように一つだけ空いていたカウンターの隅の席に腰を下ろした。 が、その前に背中のリュックを下ろさねばならなかった。 青年は腰を屈めリュックサックの底をそおっと床に着けてから、腕を抜いた。 「コーヒーを濃い目で。ミルクは沢山用意してね。砂糖は要らないよ。あと、こんがりトースト二枚。 かりかりベーコンと半熟目玉焼き付きで。胡椒をたっぷりかけて。」 当然の如くそのようなものはメニューにはなかったが、マスターは特に何も言わずふんと頷いて、 奥の方でじゅーじゅー、がちゃがちゃと忙しなく音を立てている奥さんに目配せをすると、自分はコーヒーをいれにかかった。 リュックサックは壁にもたれ掛けさせているわけでもないのにどっしりと安定して、揺らぐ様子は少しも無く直立している。 青年は大きな外ポケットのチャックをじぃと開けると、そこに入っていた茶色の背表紙をしたノォトを取り出した。 取り出す際にそのノォトの下に青色のノォトや、 はたまたそのノォトの奥に緑色や紫色のノォトが数冊入っているらしき様子が見えたが、 すぐにチャックをを閉めてしまったのでよく分からなかった。 取り出したノォトをぱたんと開くと、小指ほどに小さくなった鉛筆が一本転がり出てきて、青年はそれを拾い上げると何かを書き始めた。 セレスは青年の横の席に座り、紅茶を飲みながらその様子を横目でじっと見ていた。 何を書いているのかは、字が小さすぎて隣からではとても読めない。 青年は見られていることに気づいていないのか一心に書き続けている。 あまりに熱心でなんだか可笑しかった。書きながら急ににやけたり、しかめっ面をしたり、まるで、お気にいりのおもちゃで夢中になって遊んでいる子供だ。 「何を書いているの?」 ようやくのことでセレスは言った。 急に声をかけられ、青年はびくっと体を跳ねさせてセレスを見た。 「君のことを。」 答えながら、手だけは変わらず動き続けている。 セレスは思わず苦笑いをした。 「馬鹿ね。私がずっと見ていたのにも気付かなかったくせに。」 「いや、本当さ。さっきはあっちの悪口の絶えないマダムたちやあそこに窮屈そうに座っている八人の家族連れのことを書いてた。 今からは君のことを書こうと思っていたところさ。ほら、読むかい?」 そう言って、ようやく手を止め、ノォトをセレスの方に向けて差し出した。 セレスは青年の観察力に驚いた。確かに私の事も気付いていたのかもしれない。そう思いながらノォトを受け取り、顔を近付けて覗き込んだ。 マスターがいれたてのコーヒーと焼きたてのトースト(かりかりベーコンと半熟目玉焼き付きで胡椒もたっぷりかかっていた)を黙って差し出した。 青年は満足した顔で受け取ってカウンターに置くとコーヒーをすすり、さらに満足した顔でにっこりとマスターに微笑んだ。 「うん。おいしいね。」 青年が言うとマスターは口髭を二・三度撫でて、ふんと言い、グラスを磨き始めた。 「読めないわ。」 セレスは顔を上げて言った。 ノォトにはおびただしいみみずがのたくっているようだった。 しかも、先の丸く太くなった鉛筆で一体どのように書いたというのか、糸みみずのように細く小さい。 「速記?私も少しは分かるけれど、これは全然駄目だわ。」 「秘密の暗号だからね。」 青年はようやくコーヒーカップから口を放した。そうして、トーストを手に取り、端の方をかじった。食む度にさくっさくっと軽やかな音がする。 青年はその音に目を見開いて、『サクサクサクッ、サクサクサクッ、サクサクサクサク、サクッ』と、ちょっと早めのクリスマスソングを奏でた。 「お調子者ね。」 と心の中だけで言って、ノォトから青年の顔へと目線を移した。 もう、陽が弱くなって久しいのに肌の色は浅黒い。目の色はセレスの髪の色とよく似た茶色だった。 「どこから来たの?」 「忘れた。」 「そんなわけないでしょ?」 「長いこと旅をしているからね。忘れたよ。」 「どれくらい旅をしているの?」 「随分と長い間だよ。」 「・・・そう・・・。」 「ああ、席が空いた。あっちのほうがいい。」 青年ははぐらかすように立ち上がり、リュックサックを左手でひょいと持ち上げて、 右手でノォトとコーヒーとトーストの皿を持・・・とうとして持てず、セレスが代わりに運んだ。 青年はリュックを下ろすと四脚の椅子のうち二脚を八人家族のテーブルに移動させた。そのついでに幼児用の補助椅子をセットする。 八人家族の母親は、父親と一人ずつ抱っこしていた幼稚園児くらいの子供二人をそれぞれ用意された椅子に座らせると、 運ばれてきたばかりのチキンの皿を青年に差し出した。 「どうもありがとう。お一ついかが?」 「ありがとう。では、遠慮なく。」 青年はてっぺんにあった一つをつまんで口に入れ、はふはふと湯気を立ち上らせた。 「それにしてもすごい荷物ね。何が入ってるの?」 セレスはリュックサックに目をやった。 「ノォト。」 「全部?」 「全部。」 青年が再び外ポケットを開くと、さっき見えたはずの青色のノォトはそこになく、かわりに橙色のノォトを取り出した。 セレスが体を傾けて見たそうにすると、青年はテーブルの上にそっと広げた。 先程の字とは雰囲気の違って角張った、しかし、やはり小さいみみず文字がいっぱいに連なっている。 「なんて書いてあるの、これ?」 左のページには薄い黄色の染みが大きくあり、矢印して短く何か書いてある。 「”エレンの奴め。コーンスープを溢しやがった。さっきまではコーンも乗っていた!”」 青年はふふ、と笑った。 「まったくもって親父らしい文だよ。僕はこんなこと書かない。」 「お父さんもこんな事をしているの?」 「そう。もう、随分前に別れたきりだけれど、生きていればきっと今もね。」 青年は相変わらず姿勢正しく直立しているリュックサックを見て目を細めた。 「親父の親父もまたその親父も。この中には沢山の人の記録が詰まっているんだ。 死ぬまでの間に一人でも多くの人の記録を残したいんだ。ほんの少しずつでもいいから・・・。」 「あなたのことは?」 「では、君が。」 そう言って、青年は残りのコーヒーを一息に飲んだ。 「さて、だいぶ長居してしまった。そろそろ行かなくては。」 「もう、今日は遅いし、この町に泊まっていけば?」 「・・・行かなくては。」 「何故、そんなに急ぐの?ほら、さっきより雪も降ってきたみたいだし、ゆっくりしていけばいいじゃない。小さな町だけど面白い所もあるし、楽しい人だっていっぱいいるのよ。」 畳み掛けるように言ってしまった後、セレスははっとして口を噤んだ。青年は黙ったまま優しく微笑んでいる。 「ごめんなさい。気をつけて、元気でね。」 「君も。」 青年はマスターにごちそうさまを言い、お代を払うと扉を開けた。 カラコロカラコロ。 ベルが鳴る。 夜の暗闇が街灯とカラトルから零れる灯りに照らされて、雪が大分降っているのが分かった。風は無い。穏やかだ。 「ありがとうございました。」 マスターの低い声が青年と一緒に扉の向こう側に吸い込まれていく。 カラコロカラコロ。 もう一度ベルが鳴って、扉は閉まった。 店の奥さんがカラになった皿やカップを片付けてゆき、テーブルには寂しげな雰囲気だけが残った。 ふと見ると、青年の座っていた椅子の上に茶色のノォトがあった。 「やだ、忘れ物だわ。」 慌てて立ち上がり、窓越しに青年の姿を目で追ったが、すでに影すら夜の闇に消えてしまっていた。 それ以上、青年を追い掛けようとは思わなかった。 セレスは椅子に腰掛け、ノォトを手に取り、暫らくぱらぱらと頁を捲っていたが、やがてバックからペンを取出し、 青年の読めない文字の続きを書き始めた。 あなただけの他愛の無い けれども大切な物語 もしもあなたが忘れても きっと誰かの心に残っている story & comment by らい |