<エッセイ>

シンバル

エッセイ・ 杉原和人



 1960年代、ボクの住む街では「鼓笛隊」が全盛でした。当時、小学生だったボクも、地域の鼓笛隊に所属していました。鼓笛隊ですから、楽器は文字通り笛と打楽器。まだ、「鍵盤ハーモニカ」なんかが一般的でなかった時代です。レパートリーは「史上最大の作戦マーチ」など(後は忘れました)。


 鼓笛隊に入ると、「たて笛」を担当します。この頃、音楽の授業で習う楽器はハーモニカ。したがって、鼓笛隊に入ってはじめて笛を買ってもらうのです。笛を「刀」のようにズボンに差して、さっそうと歩くことが誇りでした。笛の材質は、今のような丈夫なものではないため、すぐ折れてしまいます。それを、色とりどりのビニールテープで修理する、これがまたカッコイイ。


 しかし、だんだん物足りなくなってきます。笛は30人以上おり、冷静に考えると、いくらカッコよくビニールテープを巻いていても全然目立たない。ボクがいた鼓笛隊では、女子が担当する楽器は笛の他に「小太鼓」と「鉄琴」があり、それぞれ担当する人数も5〜10人ぐらい。その上、バトントワラーもいます。それに比べ、男子は笛以外には「シンバル」と「大太鼓」が各1人。つまり、男子で目立つのは2人だけ。ものすごい競争率。ボクは、3年以上も笛に耐え、4年生のとき、ついにシンバルの座を射止めました。みんな、ボクのことを名前ではなく、「シンバル」と呼びます。うれしくて、うれしくて、手の皮がむけても練習を続けました。


そして、待ちに待ったデビュー。ボクのいた鼓笛隊は、動物園や水族館などのイベントの出演のほか、月1回、町内を行進することになっていました。ボクのシンバリスト(?)の初舞台は、その町内の行進。練習場だった川原から出発して、商店街を一巡してまた戻ってくるというコース。ピカピカに磨き上げたシンバルを両手に、肩に飾りのついた白いワイシャツと黒の半ズボンというユニホーム。母や祖父母に凛々しい姿を披露するはずだったのですが……。


異変は、出発直後に起きました。なんと、下着のパンツのゴムが切れてしまったのです。当時のパンツにはゴムが入っており、切れることは珍しいことではなかったのですが、シンバル奏者にとってはヤバイ状況。行進がすすむにつれ、パンツがしだいにずり落ち、半ズボンのすその辺りからはみ出してきました。でもシンバルで両手がふさがっており、引きずりあげることはできません。今なら「オシャレ!」と言えなくもありませんが……。それでも、誇らしさが恥ずかしさを大きく上回っていました。見物する人たちの拍手の中で、次第に気にならなくなりました。自宅前では、母が感動で涙ぐんでいるように見えました。


 そして、行進が終了。満足して家に帰ると、なんと、母が泣きながら抱きついてくるではありませんか。「えっ、こんなに感動してんの」とビックリ。しかし、母は「かあちゃんが、しっかりしていなかったから、パンツのゴムが切れたんだ」と言って、何度も何度も謝るのです。


 その時のボクは、鼓笛隊で頑張ってることをほめてほしかったのに。ズボンまでずり落ちたのならともかく、パンツのゴムくらい、たいした問題じゃなかったのに…。


<おわり>




comment

一昨年、札幌市に住むおばあちゃん(私の母)が、脳梗塞で倒れました。

旭川市に住む私たち一家(妻と子ども3人)は、リハビリを頑張るおばあちゃんを、
どう励まそうかと考えました。その話し合いの中で、
私が母の思い出として語った内容が、家族に大うけでした。
本文は、その一部をまとめたものです。

話し合いの結果、私たちは、FAXで、家族全員で一言づつ、
毎日励ましのことばを送ることにしました。その甲斐あってか、
母は自力歩行できるまでに回復しました。

Essay & comment by 杉原和人


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