Akahana Circus

作/ゆとり


 


 小さなため息が白く空に昇ってゆくと、まるで贈り物のお返しのように、雪が舞い降りてきました。

 雲に目隠しをされた星たちが、しかたないねと笑った、今夜さいごの光が、雪と一緒にひとつまたひとつと地上に落っこちては、街路樹を輝かせます。



 サーカス小屋で働く見習いの少年は、今日も独りきりで道ゆく人々を眺めていました。

 ケーキの箱を抱えた男の人が、慎重に、でも急ぎ足で家路をたどっています。

 街燈の下、誰かを待っている女の人の優しい笑顔が灯りに滲んでいます。

 肩に降り積もる雪も気にならないほど、寂しい気持ちが少年を覆いました。

「いつか僕も、あの華やかな舞台に立てる日がやってくるのだろうか。」

 何度も繰り返したつぶやきは、白い息に姿を変え、すぐに冷たく澄んだ冬の空に消えてゆくのでした。



 サーカスのテントは、人々の興奮と幸せな笑い声でふくらんでいます。

 背後で歓声が上がるたびに、少年はあてもなく振り返ります。

 かすかに聞こえる音楽は、壊れたラジオのひとりごとのようでした。

 途切れることのない拍手は、毛布にくるまって聴いていた夜の雨音によく似ています。



「そんなに小さな声じゃ、お客さんが入ってこないだろう。」

 団長が困ったような笑顔で、肩を叩いた大きな手の感触がまだ残っています。



 手袋をはずして、乾いたてのひらを空に差し出すと、雪はじゃれるように集まってきて、やがて少年の体の中へもぐりこんでゆきます。少年は、眠りについた子供が、深くベッドの中へ沈んでいく、柔らかな場面を思い浮かべました。

 かじかんだてのひらが、ちりちりと痛くなりました。マフラーを巻きなおして、少年はそっと目を閉じました。



 憧れのサーカス団で働けることが決まった日には、うれしくてうれしくて、家の中ではまったく足りずに、外に駆け出して、母さんと弟を驚かせました。

 新しい宝物を探すような毎日は、瞳が双眼鏡になって、どんなことも、めずらしく素晴らしいものに映りました。

 そんな毎日に「あたりまえ」という感覚がしのび寄ったのはいつの日からでしょうか。

 あたりまえの毎日。ライオンの世話、衣装の整理、玉乗りの玉磨きも、ピエロの人形の着せ替えも。

 哀しそうな涙のかたちの刺繍を頬に縫いつけられたピエロが、少年に笑いかけます。それは、鏡に映る自分のようでした。けれど、おどけて人々を笑わせることも、今の少年には出来ないのです。

 曲芸の練習を繰り返しても、迷路の行き止まりに迷い込んで動けずにいるような、そんな不安が胸にあふれます。

 このまま、上手にならなかったらどうしよう。

 不安で心がいっぱいになると、希望が追い出されて逃げていってしまうようで、ますますこわくなるのです。

 好きなことができるしあわせ。

 そんな魔法のような言葉も、時々、効き目を失ってしまいます。



 ぼんやりと考えごとをしている少年の耳に、さくさくと雪のうえを歩いてくる、かろやかな靴音が聞こえました。

 少年が顔を上げると、目の前に、寒さで鼻を真っ赤にした女の人が立っていました。頬もとても赤く、少年は星座図鑑で見た、さそりの星を思い浮かべました。

 女の人は、なんだか変わった格好をしていて、まるで歳が想像できない、ふしぎな顔立ちをしていました。楽しいのか哀しいのか、それさえもわかりません。たくさんの表情が溶けあって、笑っているような、そして今にも泣き出しそうにも見えるのです。



 女の人の口がぱくりと開いたかと思うと、高すぎず低すぎず、とても心地のよい音色の声が響いてきました。懐かしい、オルガンのような音です。

「今日はわたしの大切な記念日なの。」

 突然のことに驚きながらも、少年はこのふしぎな女の人と、永いともだちになれるような、すてきな気配を感じました。

「お誕生日ですか?」少年はたずねました。

「いいえ。今日はわたしの結婚式なのよ。」女の人は言いました。照れた笑顔がうかびます。

 しかし次の瞬間、その表情はあっという間に暗く沈んでしまいました。

 まるで、早回しの空を見ているみたい。少年は思いました。

「でもね、わたしは結婚式に行けないの。」

「どうしてですか?」少年はびっくりしてたずねました。

「ブーケをなくしてしまったから。たったひとつの。たいせつな。」

「お願いです。どうか泣かないでください。」思わず少年の口をついた言葉に、女の人は一瞬ぽかんとしました。

 少年は、女の人が泣き出してしまうのではないかと思ったのです。だって、そこらじゅうの空気が、涙の予感でいっぱいなのですから。

「僕があなたに、お花をプレゼントします。」

 照れ隠しに、少年はてのひらから、ひょいと赤い花を差し出しました。それは、サーカスの呼び込みのときに使う、手品のタネの造りものの花でした。練習で何度も繰り返し使ったので、もうくたくたになってしまっています。はじめは鮮やかだった色も、今はすこし、くすんでしまいました。それでも、少年は捨てることができませんでした。毎日、布でほこりをぬぐいました。もとの色には戻らなくても、世界でたったひとつの色なのですから。

「あなたのブーケの代わりにはならないけれど、これもたったひとつの、僕のたいせつな赤い花です。」

 


 

 はじめて団長から手品を教わった時、少年はタネを知ってしまうことが、なんだかとても寂しいことのように思えました。

 しかし、家族やともだち、そしてお客さんの楽しそうな笑顔を見ると、その寂しさが姿を変えて、少年の心に舞い戻ってきたのです。

 いつか団長がこう言っていました。

「サーカスはね、みんなに喜んでもらうために、街から街へと旅をするんだ。人を喜ばせてあげるには、哀しい気持ちや、つらい想いも知っていなくてはならないよ。そうすれば、みんなが笑顔に変わる瞬間を、なによりもたいせつに思えるからね。」 


 

 女の人は、冷たいてのひらで、赤い花をそっと受け取りました。

「本当はすこし不安だったの。しあわせになれるかとか、しあわせにできるかとか。でも、意識しすぎるとだめよね。せっかくのしあわせが曇ってしまうもの。このお花、とても嬉しかった。」

 またひとつ、寂しい気持ちが、やさしい言葉に姿を変えて、少年を温めてくれました。

 何と言えばいいのかわからずに立ち尽くす少年に、女の人は言いました。

「どうもありがとう。」

 その笑顔も、赤い花も、真っ白な雪に映えて、とてもきれいでした。

 まるで、生まれかわった星のように。



 女の人は、雪のうえを、またさくさくと歩いて去ってゆきました。そのうしろ姿を眺めながら、こんな時間に教会は開いているのだろうか、と少年はふと思いました。

 その時、背後ではひときわ大きな声援と拍手が巻き起こりました。

 今夜のサーカスが終わりを告げようとしています。



 出口のゲートをくぐるお客さんの顔は、みんな、あかるく輝いて見えました。

「また来るね。」と片方の手はしっかりお母さんとつないだまま、小さな手を振る男の子。

 はなやいだおしゃべりが止まらない女の子たち。

 神経質そうな紳士も、今夜は顔をほころばせています。

 興奮がまだ冷めずに、頬をピンクに染めてサーカス小屋を後にする人々を見送ると、団員たちは、名残惜しそうに後片付けをはじめます。

 どうか今夜のお客さんみんなの夢に、僕らのサーカスがもういちど訪れますように、と祈りながら。



 たたんだテントや荷物を運んでいる途中、少年は、いつものピエロ人形の横に、もう一体の人形を見つけました。

 団長が少年のそばにやって来ました。黒いひげに雪がくっついて、きらきら光っています。

「ああ、最近ピエロが寂しそうに見えるからね。ともだちを増やしてやったんだ。どうせなら女の子がいいと思ってな。」

 その女の子ピエロは、たくさんの表情が混ざり合ったようなふしぎな顔で、少年を見上げています。

 真っ赤な鼻と、頬の星型の刺繍。

 少年も、笑いたいような泣きたいような、ふしぎな気持ちになりました。

「じゃあ、今夜はピエロの結婚式だね」

 猛獣使いの青年が、そう言って笑いました。眠たそうなライオンが、大あくびをして檻に帰ってゆきます。

 綱渡りの少女は、ふざけてウエディング・ソングを歌いはじめました。

 男の子ピエロの頬の刺繍も、今夜はうれしい涙に見えました。

 サーカス団の仲間たちは、団長のポケットの飴玉と、自動販売機の缶ココアで、ピエロのささやかな結婚式をお祝いしました。

 北風が、がらんとした広場を勢いよく通り抜けます。

 寒さで真っ赤になったみんなの鼻が、ピエロの夫婦とおそろいになって、また、たくさん笑い合いました。

 冬の凍える夜、それはくすぐったくなるくらいに、甘くて暖かな結婚式でした。



 少年の赤い花は、女の子ピエロの腕のなか。

 たいせつなブーケに姿を変えて。



 忘れかけていた、みんなを喜ばせたいという気持ちと、それでもこれから幾度もおそってくるであろう不安と。

 その両方と手をつないでゆくのです。

 新しくみつけたともだちのように。

 ずっとそばにいたいと願う恋人のように。 



 雪は街を、白く白く、くるんでゆきます。

 窓の灯りが消えるころ、たくさんの暖かな毛布のなかで、夢のサーカスはきっと幕を開けるでしょう。かわいらしい夫婦のお披露目とともに。



 目覚めても忘れない、夢のかけらを、しあわせな笑顔に変えながら。

 


 サーカス団は、次の街へ旅立ってゆきます。

 

 

  
    
《おわり》




comment


 サーカスという言葉を聞くと、頭の中をぐるぐる想像が駆け巡ります。
ピエロの抱える哀愁感も、なんだかとても好きです。

 このお話は「冬のサーカス」という漠然としたイメージからはじまって、
このごろ(2000年10月頃)の、記憶に残るクプカテラス(クプカの掲示板)
でのお話に、少しづつヒントをいただいて書きました。

 (少し早いですが)
メリークリスマスとハッピーウエディングの想いも込めて。



Story & comment by ゆとり



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