氷点下の森
作/ゆとり
あたりの空気が冷たくなり、足もとで静かな澄んだ音が、ぱりりとちいさく鳴りました。
楽器を奏でるような気分で歩いてゆくと、心に馴染む、懐かしい音色が響き渡ります。この森の木々や草にはいつでも、氷が薄く積もっているのです。
彼が、氷点下の森へ手紙の配達に来るようになって、もう3ヵ月が経ちました。配達といっても、この森には家がたった一軒しかありません。毎週必ず届く一通の手紙を、その家に運ぶのが彼の大切な仕事でした。
森の入り口に着くと、彼はいつものように自転車を止めて、鞄の中から厚手のジャケットを取り出しました。ボタンをすっかりとめてしまうと、額にうっすら汗が滲みます。5月の陽射しは暖かくあたりを包んでいるのですから。
しかし、一歩森に足を踏み入れると、そこは氷点下の世界です。はじめてここにやってきた時は何も知らなかったものですから、体がすっかり凍えて、風邪をひいてしまいました。一通の手紙を注意深くポケットにしまうと、彼は、森の中へ入ってゆきました。
頬をなでる空気は、冷たく、それでも微かなぬくもりを抱えています。ちょうど冬の手のひらみたいに。
いつでも淡い色の森の中では、夜のおわりと朝のはじまりのあいだに迷い込んだかのように、時間の感覚が消え失せてゆきます。
時折、風が吹き抜けて、木々や草に積もった氷が流れると、一瞬、驚いて目を覚ました緑色が、照れ笑いを浮かべるように輝くのです。彼は思わず立ち止まって、そのあまりに鮮やかな緑に心を寄せました。やがて、また氷が積もり、森はもとの淡い世
界に戻ってゆきます。
そんな時、彼は深い森の中で、時間が止まったように繰り返す、海の風景を想いました。果てしなく遠い距離と、限りなく近い印象を感じながら。
故郷でいつも眺めていた海は、山に囲まれたこの町にはありません。
氷点下の森は、心の中の、海と森の境界線のように、静かに存在しています。
目的の家に着くと、彼はポケットの中の手紙を取り出しました。まっすぐに伸びる美しい木々に囲まれたその家もまた、薄い氷に包まれて、儚い幻のようでした。
玄関先のポストを開いて、彼は、おや、と思いました。いつもの白い封筒が見当たらないのです。というのは、彼がこの家に手紙を届けると、いつもポストの中に、手紙と切手代が置いてあり、彼はそれを町の郵便屋に持ち帰るのが習慣でありました。
今週は返事を書かなかったのだろうか、と彼は考えましたが、3ヶ月の間、規則正しく繰り返された手紙のやりとりを思うと、それは不自然なことのように思えます。
しばらく迷いましたが、彼は思いきって、家の住人に尋ねてみることにしました。
正直なところ、好奇心もありました。なにせ、配達に訪れて、この家に住む人に会ったことは一度もなかったのですから。いったいどんな人が暮らしているのだろう? 手紙の中にはどんな言葉が綴られているのだろう? と彼はいつも考えていました。手紙の宛名は見知らぬ外国語で書いてあります。差出人の住む国の場所を、地図の中で思い浮かべることはできませんでした。郵便屋の年上の配達員が、遥か南の国だと教えてくれました。
木製の扉がそっと開き、彼の目の前に姿を現したのは、まだあどけなさの残る女の子でした。年齢はたぶん、彼と同じくらいでしょう。やわらかい輪郭とは対照的な、硬く澄んだ瞳が印象的でした。そう、それはまるで生まれたての氷のようでした。
彼女は、緊張と当惑の表情を浮かべていましたが、彼が手にしている手紙を見つけると、安心したように言いました。
「ごめんなさい。まだ手紙を書き終えてないの。もしよろしかったら、少し待っていてくれますか?」
「もちろんです」
彼はいつも最後にこの森へ配達に来るので、もう仕事は残っていませんでした。
「ありがとう。では、中で待っていてください。ここは寒いでしょう?」
そう言っている間にも、彼女の髪や肩には、うっすらと氷が積もり始めていました。ただでさえ白い肌の色素が奪われて、そのまま消えてしまいそうでした。この森の気温にもだいぶ慣れたとはいえ、じっとしていると氷に包まれ、永遠に動けなくなってしまいそうな錯覚にとらわれます。
家の中は、寒さも暖かさもなく、不思議な温度を保っていました。簡素なつくりで、清潔な部屋です。壁も床も家具も、すべて木でできていました。
彼は、ふと疑問に思ったことを彼女に尋ねました。
「ここは暖炉がないのに、寒くないのですね」
「木の体温がありますから」
彼女はあたりまえのように答えました。
彼がそっと壁に触れると、とくん、と脈の響きが指先に伝わり、木の優しい生命の温度を感じることができました。
「どうぞ、座っていてください。もうすぐ書き終わります。どうしても書き加えたいことがあったものですから」
彼女は、お茶を彼に手渡すと、机に向かって手紙の続きを書き始めました。
窓の外の森は、今にも壊れてしまいそうなほどに澄んでみえました。
5分ほどで、彼女は手紙を書き終えました。
「お待たせしました。今、切手代を払いますね」
ぼんやりと外を眺めていた彼は、われにかえって慌てて言いました。
「いえ。こちらこそ、おいしいお茶をありがとう。とてもきれいな色だね」
それは、海のように美しい青色でした。
「じゃあ、もう一杯いかがですか?」
「ああ、どうもありがとう」
ハーブの香りが部屋に広がります。彼女はキッチンから、ちいさく切ったレモンをもってくると、透明のティーカップのなかに数滴、果汁を垂らしました。すると、青いお茶が、ピンク色に変わってゆきました。カップに彫られた金色のゆるやかな曲線模様が、ランプの灯りと溶けあって、淡い光を水中に落とします。
「海の夜明けみたいでしょう?」彼女は微笑んで言いました。
「ほんとだ」
目を細めると、眠たくてまだ重い瞼でみつめた、忘れられない光が蘇ります。
窓の外では、風が流す氷の音が、波の調べを優しく奏でています。
深い深い森の中。
それは、遠くて近い、彼の海でした。
帰り道、彼のポケットには、いつもの真っ白な封筒に入った手紙が眠っています。
結局、手紙については何も聞くことができませんでした。残念なような、そのほうがいいような、複雑な気持ちです。遠い国で言葉たちが目覚める時、そこにはどんな風景が広がっているのでしょう。
境界線を越えて、迷い込んだ魚が、森を泳ぎます。
時間が止まった氷点下の森では、心の景色そのままを、氷が閉じ込めているのです。
《おわり》
美しいけれど、寂しい感覚が氷にはあります。
ありのままを保存することができても、ぬくもりは失われてしまう。
それでも、どうしても忘れたくないことに再会できる場所が
あればいいな、と思わずにはいられません。
Story & comment by ゆとり