<小説>


夏と永遠

作・ゆとり




 埃まみれの手で、小さな窓を開けると、涼しい風が吹き込んできた。納屋の中は古いもの独特の空気で満ちていて、時々、時間の感覚が狂ってしまう。納屋を片付け始めて、もう三日が過ぎた。


 今年は祖父の初盆だった。祖父の暮らしていた地方の初盆はとにかく賑やかで、東京育ちの私はすっかり圧倒されてしまった。庭には大きな太鼓が設置され、村中の人々が盆踊りにやってくる。日中歩いていても、殆ど人とすれ違うことの無いこの村に、こんなにたくさんの人が住んでいるとは思わなかった。こういうものを見ると、土地の引力みたいなものを感じざるを得ない。

 玄関の提灯と、仏間の走馬灯の儚げな光だけが、私の想像する盆の風景だった。


 弔問客の対応や、様々な手続き等で疲れ果てた私の父母は、初盆を済ませると、早々と東京に戻っていった。

 暇な私は、しばらく祖父の家に滞在し、荷物の整理をすることになった。祖母は六年前に他界し、祖父は独りで暮らしていたので、物はそれ程多くなかった。三歳年上の従姉と二人で、家の隅々まで掃除した。管理業者に任せることになっていたのだが、なんとなく、手を止めることが出来なかった。

 別に家が消えるわけでもなく、いずれ帰るかもしれない父や、父の兄弟の為、祖父母は生前に家の建て直しまでしていた。それでも、祖父母の居なくなったこの家は、幼い頃は毎年夏になると訪れていた家とは、違う場所のように思えた。

 その感覚が不安だった。不安がいちばんひどい夕暮れ時になると、従姉と縁側に並んで座って、祖父母の思い出話をした。微かな気配を繋ぎとめるように。


 「私、明日帰るから。仕事のこともあるし」

 いつものように縁側でアイスを食べながら、従姉が言った。

 「うん。あとは私がやるから」

 「悪いね。任せる」

 空には無数の蜻蛉が飛び交っていた。考えてみると、盆を過ぎて、この家に居るのは初めてのことだった。夏の景色と匂いはすべて、この場所にあるように思えた。だから、別の季節のことを思い浮かべることは出来なかった。

 「田舎のお盆てさ、不思議な感じがするね。独りで家に居ても、なんだか密集感があるの。妙にざわざわしてて、家中が人の気配でいっぱいなのよ。ちょっと風通しが悪くなるみたいに」

 「怖いこと言わないで。明日から私、独りなのよ」

 「ああ、ごめん。でも平気よ、みんなご先祖様なんだから」

 そう言って笑う彼女の優しい目の形は、一瞬息が止まりそうなくらい、祖父に似ていた。私のまるでツチノコのような、かたちの悪い手の小指も、明らかに祖父ゆずりのものだ。

 

 夕暮れ、電灯も無い田んぼの畦道の真ん中で、辺りの景色を全部食べ尽くすかのように忍び寄る夜に、私はひどく怯えていた。夏は、太陽も青空も山々も、すべてが圧倒的な生命力に包まれていて、暗闇なんて永遠に訪れないと信じてしまう。膝を抱えて道端にしゃがみこむ私を、祖父はいつも迎えに来てくれた。

 薄暗くて、顔は殆ど見えないけれど、ツチノコのかたちの小指に触れると、緊張のあまり機能することを忘れていた体が、正常に動き出すようだった。吸い込む夜の空気は澄みきっていて、もう不安の粒子は何処にも潜んでいなかった。

 機嫌を良くした私は、祖父にいつも同じ質問をした。

 「ねえ、おじいちゃん。わたしもいつか、ほんとのツチノコをみられるかな?」

 「ああ、もちろん。でも、指にツチノコを飼ってる人なんて、なかなかいないよ。二人だけの秘密だ」

 そう言って、秘密の約束をした。ツチノコのゆびきり。


 いつから私は、夜が来るのを怖がらなくなったんだろう。ぽつんと取り残されたような小指を見つめながら、ぼんやり考えていた。不恰好な小指を、こんなに好きなんて。

 遺伝の力。それはしばらくは、つらいことなのかもしれない。けれど、従姉も私も知っている。時が経てば、嫌でもその力を愛しく思うようになる。

 

 「そうそう、案内虫って知ってる?」

 空に目を向けたまま、従姉が言った。

 「案内虫?」

 「うん。おじいちゃんが教えてくれたの。森の中で迷うとね、先に立って案内してくれる虫なんだって。そんなの聞いたことある?」

 「ない。正式名称じゃないでしょう?」

 「たぶんね。私がね、最後におじいちゃんから聴いた話なの、それ」

 祖父は物知りで、私たちにいろいろなことを教えてくれた。空について、稲穂について、蛙について。思い出すときりがない。それがどんなに信じられないような話であっても、祖父の口から出る言葉を疑うことは無かった。従姉もきっと同じだろう。

 彼女はもう何も言わず、私は残念ながら祖父の口から聴くことの無かった、案内虫について想いを巡らせた。


 

 従姉が帰ってしまうと、私はダンボールに詰めた荷物を納屋に運び込み、ついでに納屋の整理をはじめた。箱の中のひとつに、私の幼い頃の衣装がつまっているものがあった。まだ新しい防虫剤が入れてある。こういうのは、純粋に胸が痛くなる。

 私は井戸の水で手を洗ってから、箱の中身を出して、眺めた。


 底のほうから、和紙でくるまれた包みが出てきた。紐を解いてみると、それは桃色の兵児帯だった。私はその帯を気に入っていて、浴衣を着ると、それ以外の帯を決して締めなかった。鮮やかな色彩も、くしゃっとした触り心地も、本当に大好きだった。

 そういえば、少しだけ祖父の手に似ている。

 あたりはもう、夕方の匂いがしていたけれど、寂しくはなかった。

 私は兵児帯に頬を埋めて、しばらくそのまま動かずにいた。


  
    
                                

                                    

    おわり




comment


 私は夏が苦手です。どうしても体質的にあいません。けれども、夏の情景を思い浮

かべるのは好きです。幼い頃の思い出は、なぜか夏に集中しています。

この作品は、冬の東京で、夏の田舎を想いながら書きました。

記憶の中の、私の夏のイメージです。



Story & comment by ゆとり




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