<物語>
真 珠 星
作・ゆとり
春の匂いもすっかり空になじんで、花々はやわらかく道端に影を落としています。見上げれば、ナイフで切り取ったような鋭い半月が、いくぶん緩んだ空気をひきしめていました。
「そうだ、みんな春のせいなんだ」
今日もまた、居眠りをして怒られたのです。独りつぶやいてみると、思ったよりも声は大きく響いて、私はおそるおそる辺りを見まわしました。ひとり言にまで気をつかうなんて、ばかげているとうんざりしながらも、からだは勝手に動いてしまいます。行き場のない緊張をほどこうとしてネクタイを弛めると、しまいこんでいた疲れが体中に染みわたるような気がしました。
もう終わりかけの花が、なぐさめてくれるかのようにひっそりと揺れました。
美しい景色と私のこころはずいぶんと色味が異なるのですが、もうすこしこの春の空気に甘えてみようと思い、遠まわりをして帰ることにしました。
窓からこぼれた生活の匂いのにじむ路地裏をぬけて、浜辺につながる長い階段を降りていきます。砕けたコンクリートの隙間から、名も知らぬ花がのぞいていました。うすべに色の雲が、視界を泳いでいきます。
さいごの一段をけって砂浜に降り立つと、足のうらがじんわりあたたかくなりました。春の熱を感じながら歩くのは、気持ちがいいものです。
潮の匂いをあびながら、おぼつかない足を運んでいると、とつぜん子供のころとそっくり同じ感覚がよみがえってきました。
足もとに気をとられながら、それでも必死に海を眺めようとする気持ち。立ち止まればいいのに、ずっと歩いて行きたくなってしまう気持ち。うまく調和のとれないこころとからだで、海と向きあっていました。そんなあやふやな歩みでも、しっかりと海の存在を感じていたのです。耳にすべりこむ波音や背中にあたる光さえ、おなじものはひとつもないというのに、贅沢にすべてを与えられているということ。
幼いころを想いながら歩いていたので、過去の記憶と、現在の景色が混ざりあったのでしょう。目の前にしゃがみこむ男の子を見ても、むかしの自分を見ているような気分になって、私はしばらくぼんやりしていました。
男の子がふしぎそうな顔で私の目をのぞきこんで、小さく笑ったとき、やっと我に返りました。耳が赤くなっていくのがわかります。「おかしな人だったらどうしようかと思っちゃったよ」男の子は、好奇心の光を深くたたえた目で言いました。
「ただ、ぼおっとしていただけなんだ」私はあわてて言いました。
「わかってるって」男の子はすまして言いました。その大人びた表情や声色は、男の子の幼い顔立ちにはまったく似合わなくて、私はなんだかおかしくなりました。
「ひとりで遊んでいるの?」
「遊んでいるのかどうかはわからないけど、ひとりだよ」
「さみしくない?」
「誰といたって、さみしいときはさみしいし、ひとりでいたって、楽しいときは楽しいよ」男の子は、さもあたりまえのように言いました。
「そうか、それもそうだな」私はますます楽しくなって、男の子のそばにしゃがみこみました。
「君がはこんできたの?」
男の子の前には魚が二匹、寝そべっています。「ならんで波打ち際にうちあげられていたんだ」
「そうか。魚屋や食材店にならんでいる魚よりも、人生をまっとうしたという感じが漂っているな」私はわざとかしこまった調子で言ってみました。
「そう?」男の子は少し疑うような目で私を見ました。
「だってさ、売られている魚はずらりとならんで、なんだかあきらめたような表情をしているよ」
「ふうん。じっくり見たことなかったよ」
「なかなか興味深いよ。まあ結局、めんどうで切り身を買ってしまうけどね」
「なにそれ」男の子はあきれたように私を見ましたが、目の奥はちゃんと笑っています。それで私はずいぶんと安心して、話をつづけました。
「この二匹の魚は、夫婦かな? それとも親友かな?」
「魚だよ」男の子はきっぱりと言いました。
「ならんで息をひきとっているんだ。なにか特別な想いがあるにちがいないよ」
「だって、魚だよ」
「想像だよ。日常にも想像力は必要なんだ」
「ふうん」男の子は、私の目を深くのぞきこみました。
私はむきになった自分に恥ずかしくなり、顔をそらしました。少しづつ想像力を失っているのは、私の方なのですから。
二匹の魚の亡骸は、砂の上に静かに横たわっています。まぶたのない生き物たちの、見ひらいた目にあつまる夕方の大きな光を、私はふしぎな気持ちで眺めました。「じゃあ、もう離れてしまわないように結んであげよう」男の子はそう言うと、砂浜に座りこんで運動靴のひもをするすると抜き取りました。
「靴ひもで?」私は驚いて男の子を見ました。
男の子は答えずに、だまって二匹の魚の尾ひれと尾ひれをむすびました。「魚座とおんなじかたちになった。それなら親子かな」男の子はつぶやきました。
「どうして?」
「星の本で読んだんだよ。魚座は親子の星だって」
「こんなかたちだっけ? もうすぐ見えるかな」私は空をあおぎました。首がこきっと鳴ってしまい、苦笑いがこぼれます。
「魚座は秋の星座だよ」
「そういうことにはうといんだ。春はどんな星がでるの?」
「春の星座は、ひかえめなんだ」
「そうなのかい。あんまりよくわからないな」
「でも僕は好きだよ。真珠星もあるし」
「真珠星?」
「白い星だよ。とてもきれいな」
もうずいぶん暗くなってきた浜辺に、男の子の声はゆったり響きました。私もぺたりと砂浜に腰をおろして、海のほうに足をなげました。「ひさしぶりだな」
地面にたくさん近づくと、からだの奥から温かさがこみあげてきます。服がよごれることなんてどうでもよくなったことが、妙にうれしかったのです。けっしてこの感覚を忘れてしまっていたわけではないのですから。「なにか言った?」男の子がこちらを向いてたずねました。
「ただのひとり言だよ」私はあかるく答えます。
「ふうん」男の子は小さく笑いました。もう暗くて表情は見えないのですが、気配がちゃんと伝わります。
私たちはしばらくのあいだ、のんびりした波音をならんで聴いていました。時間が止まったような静かな心地です。春の風がいくども襟もとをすり抜けていきました。「真珠星がのぼったよ」ふいに男の子が言いました。
やさしくゆり起こされた時のような気分で、私はうごきつづけている世界に戻りました。
男の子がゆびさす夜空の一点には、ぽつんと白い星が輝いています。「ほんとに真珠に似てる」もうすこし情緒のある言葉がみつかればいいのですが、思ったままを口にしました。心からそう思ったのです。
「うん」それでも、男の子は満足げに答えてくれました。
足さきには、尾をむすばれた魚が眠っています。けっして閉じない瞳には、春のまたたきは映っているでしょうか。
空の真珠は、鎮魂の光のようにも思えました。「もう帰らなくちゃ」男の子が立ち上がりました。
「送っていこうか」私も腰をあげました。上着のすそから砂がこぼれます。
「いいよそんなの」男の子は笑いました。
「そうだ、靴ひもは?」
「なくしたって言うからいい」
「歩きにくいだろう」
「はずすわけにはいかないもん」男の子はきっぱりと言いました。
「そうか」その意思のちからを、私はたのもしく見つめました。
「じゃあ」男の子は、かるく手をふって歩きはじめます。
「さよなら」私も手をふりかえします。
不自然に歩く男の子のうしろ姿を、私はしばらく見ていました。かたむいた背中がだんだん遠くなっていきます。「靴ひもを片方なくしたいいわけって、どんなだろう」私はおかしくなって、二匹の魚のほうを向きました。暗がりの中、うろこが冷たく光っています。
靴には砂がたくさん入りこんで、ざらざら音をたてています。私は町へと続く階段に腰かけて、片方づつ靴の砂を落とすと、おだやかな気持ちで歩きはじめました。「春のおかげだな」
大きなひとり言を、波がさらっていきました。
空には真珠星。
純白の光をまとって、輝いています。
<おわり>
子供の頃の感覚というものは、失ってしまったようでいて、
ただ奥深く眠っているだけなのかもしれないと思います。
真珠星は、乙女座の一等星スピカの和名です。
和名には美しいものがたくさんありますが、
特に好きな名のひとつを小さな物話にしてみました。
Story & comment by ゆとり