<物語>


うたたねシネマ

作・ゆとり




 最終列車が走り出すと、車内は安堵に包まれたように見えました。しかめた顔、赤い顔、穏やかな顔。みんなゆらゆら揺れています。車窓の灯りは海辺の漁火に似て遠く光り、列車が速度を上げると揺れのリズムが変化しました。それはまるで夜中のジェットコースターのように人々を急いで駅まで運びます。
 
 僕は目を閉じて、線路の上を歩く僕を想像してみました。いつか映画で観たその光景はとても素敵でしたが、線路の上を歩くのは列車に申し訳ない気もします。そんなことを考えながら座席をぽんと叩くと、列車は迷惑そうに埃を舞わせました。
 しんとしたホームに降り立つと、列車は音もなく滑り去ってゆきました。うしろ姿を眺めていたら、一緒に下車した風が額をなでて、またどこかに旅立ってゆきます。
 誰かが落とした切符がぱたりと鳴いています。
 改札を出ると、背後で駅舎の灯りが消えてあたりは静けさに包まれました。
 雨の気配がします。そこらの空間から水が弾け飛んでもおかしくないほど、空気はしっとりとしていました。
「降られたらたいへんだ」
 バス停までの足取りも速くなります。
 ・・・・・!
 とつぜん景色が宙返りをしました。
 派手に転んだのは久しぶりで、しばらくぼんやりしてしまいましたが、顔を上げてつまずいた原因を確かめると、それは大きな鞄でした。
 道のまんなかに鞄? 落し物にしてはあまりに大胆です。
 見てしまった以上、知らないふりも出来ずに困り果てていると、ひだりての路地から足音が近づいてきました。
「あらあら、もっと端っこに置いといて下さいっていつも言ってるのに」
 そう言いながら姿を現したのは、品の良いおばあさんでした。肩にかけたストールの萌黄色が夜に映えています。おばあさんは僕に気付かずに、鞄を持ち上げようとしました。しかし鞄は地面にぴったり根を下ろして動こうとしません。僕は大きなかぶの話を思い出して、思わず笑ってしまいました。
 おばあさんはびっくりして僕のほうを見ると、すぐにくすくす笑いました。なぜなら僕はまだ、道端に座り込んだままだったのです。腕時計はとっくに走り去った最終バスの時刻を告げています。照れ笑いでごまかしながら、僕は言いました。
「よろしかったら一緒にお持ちします」
「ありがとう。重いから気を付けてね」
 微笑んだおばあさんの目尻のしわが柔らかくて、心が春でいっぱいになりました。萌黄のストールからは日をたくさん浴びた草の匂いがします。
 鞄は本当に重たくて、ふたりの力でやっと抱えることが出来ました。
「今回はずいぶん重たいわ」
「何が入っているのですか?」
「あなた、鞄につまずいて転んだのね。ごめんなさい」
 問いかけには答えずに、おばあさんは言いました。
「とりあえず中に入りましょう。お話はそのあとにね」
 おばあさんが現れた路地を抜けると、そこには小さな映画館がありました。昔どこかで観たかもしれない、懐かしいポスターが貼ってあります。
「こんなところに映画館があるなんて知りませんでした」
 僕はもう2年もこの町で暮らしていたのです。
「そうね。みんないつでも急いで遠くを見ているからね。なかなか気付かないのよ」
 チケット売り場のカーテンは閉じていましたが、ガラスの向こう側にプレートが掛かっていました。

『レイトショウ・うたたねシネマ』

「さあ、こちらよ」
 カウンターの女の子の大あくびに出くわして、彼女と目をあわせたまま笑ってしまいました。
 広くはありませんが、すっきりとしていて気持ちが良い映画館です。おばあさんはこの映画館にすっかり馴染んでいました。木製の壁の前に立つと、しなやかないっぽんの木のようで、伸びた背筋がきれいでした。萌黄のストールは目覚めたての葉を想わせます。
「助かったわ、ありがとう。その椅子に腰掛けて待っていてね」
 おばあさんはそう言うと、映写室と書かれた部屋に入ってゆきました。
 僕はロビーの木椅子に座りました。それは体の形に添うような素晴らしい座り心地でした。床は草のような感触です。思わず手を伸ばします。
「本物の草?」
 僕は驚いて、カウンターの女の子に訊ねました。
「ええそう。おばあちゃんがどうしてもロビーは土のままがいいって言ってね。今の季節は最高の絨毯よ。夏になったらどんどん緑が濃くなっていくの。秋になったら枯草色に模様替え。冬に雪が降ったら、天井を開けちゃうのよ」
 女の子が指を差した天井を見上げると、いちめんの天窓の向こうに星が瞬いていました。分厚い扉の向こうからかすかに音楽が聴こえてきます。
「場内も同じなの?」
「中は違うわよ。スクリーンが傷んでしまうからね。でも、私はこのロビーがとても好きよ」
「僕もとても気に入ったよ」
 そう言うと女の子は嬉しそうに笑いました。目尻の優しいかたち。
「君のおばあさんがこの映画館を?」
「そう。ぜったいに好きな映画しか流さないの。頑固なのよ。おじいちゃんもパパもママも呆れてるけど、みんな文句は言わないの」
「わかるよ。みんなここが好きなんだね」
 そのとき映写室のドアが開いて、おばあさんが戻って来ました。
「お待たせしてごめんなさい」
「今日の夢はどう?」女の子が尋ねます。
「とても静かな夢だわ」
「そろそろ時間ね」
 女の子はカウンターから出て、大きな扉を開きました。
 映画を観終えた客が出てきました。ある者は涙を浮かべ、ある者は子供のような顔に戻っています。
「不思議な題名の映画ですよね」
 僕は言いました。
「あれ? あなた、うたたねシネマを知らないの?」
 女の子はぽかんとした顔で言いました。
「そうなの、偶然の出逢いなのよ」
 おばあさんは可笑しそうに僕を見ます。
「説明するより、見ていただいたほうがわかりやすいかしら。荷物を運んでいただいたお礼に、よろしかったらどうぞ。じきに最終回が始まるわ」
 
 場内は落ちついた空気に包まれていました。座席数は少なく、半分ほどを人が埋めています。濃紺の絨毯が敷き詰められ、椅子の色はひとつひとつ違って、夜空に虹が浮かんでいるようでした。
 僕はいちばん後ろの真ん中あたり、濃い紫色の席に座りました。
 開演のブザーが響き渡ると、カウンターの女の子がやって来て、僕の隣に座りました。
「この回はお客さんが少ないから、私もいっしょに見るわ」
 幕がするすると開いて、暗い画面にあかりが灯りました。


 誰かが肩をたたいています。
 柔らかい紫の椅子。僕は意識を取り戻しました。
 短く浅い、時間の狭間にもぐりこんだような感覚。
「僕は眠っていたの?」
「私にはわからないわ。でも憶えているでしょう?」
「ああ、そうだね。目を閉じたくなるくらいきれいな景色だった」
「ほんとうに」
 カウンターの女の子は話している間も、僕の肩を規則正しくたたいています。ずっと幼い頃の、同じ感触を想いました。
 背中から光が差して、夜の虹を照らします。
「いかがでしたかしら?」
 おばあさんは両手に持っていたグラスを女の子と僕に渡すと、空いている席に座りました。
「あれは夢なのですか?」
「そう。あなたにも目覚めると忘れてしまう夢があるでしょう?ここでは、そういう忘れられた夢を上映するの」
「じゃあ、あの鞄の中身は」
「集めてもらった夢よ。なかにはずいぶん混乱しているものもあるの。でもね、きちんと見届けると、消えてなくなるわ。だからあなたが今夜見た夢は、もう二度と見られないのよ」
「僕はしっかり見ていたのでしょうか?なんだか半分眠っていたような気がするんです」
「いいのよ。だから、うたたねという名の映画なのですもの。あなたは心と体、両方で夢を見ていたのよ。そうしなければこの映画を・・・誰かの夢を見ることは出来ないの」
 そう、あの感覚はちょうどうたたねをしている時に似ていました。眠りの中にいるはずなのに、まわりの空気、風景、音や光を体は感じているのです。
 おばあさんは頷いた僕を見て、優しく目を細めました。
「はじめは場内にも自然を取り込もうとしたの。雪の日に雪降る映画を観るなんて素敵でしょう。でもね、人間の想像力は真夏をしんとした冬にだって変えることが出来るのよ。だから余計なことをするのはやめにしたの」
「僕は余計なことばかりして、たくさん忘れ物をしたような気がします。こんな映画館があることさえ知らなかった」
「そのときは気付かないこともたくさんあるのよ。だから想い出の中の自分をかわいそうだなんて思わないで。いま気付いたことが大切なのだから。あなたが今夜見た誰かの忘れられた夢を、どうか心にとどめておいてあげてね」


 静かな夢でした。
 沈丁花が咲き乱れています。
 小さな庭を埋め尽くして。
 窓辺に毎日顔を覗かせる人が消えてしまった時、花々はいっせいに枯れ果てました。
 ひとつ残らずに。
 地に落ちた花びらが朽ちるまで、細かい雨が降り続いていました。

 

「沈丁花の花言葉を知ってる?」
 ずっと黙っていた女の子がふいに尋ねました。
「知らないよ」
「不滅」
 女の子は残り香を探すようにスクリーンを見つめたままで言いました。
「あの沈丁花たちは永遠を棄てたのかな?それとも手に入れたのかな?」
「私にはわからないわ」
 女の子は迷うことなく答えました。

 ロビーの天窓は薄くたなびく雲を映し出し、夜明けの色彩は幾層にもかさなりあって刻々と表情を変えてゆきます。
 やがて力強い光が、空を同じ色に染め上げるでしょう。
「たとえば、僕の夢が上映されることもあるのですか?」
 帰り際、僕はおばあさんに尋ねました。
「もちろんよ。不安になった?」
「いいえ」
 僕は嬉しかったのです。誰かの心に自分の夢が残っているかもしれないということ。
「また、いつでもいらっしゃい」
 おばあさんは言いました。
 涼しい朝の光の中、萌黄色が風になびいています。
 
 路地を抜けると、かすかに沈丁花の匂いがします。
 僕は目を閉じて咲き乱れる花々を想いました。
 まもなく、始発列車が町を揺り起こしにやって来ます。

  
    
                                

                                 

    おわり




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 夢はずっと最大の関心ごとのひとつです。
目覚めると漠然と感情だけが残っていて、
いったいどんな夢だったのかなと考えることがあります。
忘れてしまった夢がどこかに存在している気がしてならなくて、
こんなお話を書きました。



Story & comment by ゆとり




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