【ノンフィクション Short Story】


飯沼飛行士の夢と希望

文・むらたあけみ



この原稿は、雑誌「ストックヤード」(サンワコーポレーション発行)
から依頼され、取材に基づき書いたものです。うえの写真は、掲載誌面。
(誌面をクリックすると大きい画像でご覧になれます)



もうひとつの『神風』伝説


 飛行機に神風とくれば、多くの日本人は太平洋戦争末期の『神風特攻隊』を連想することだろう。

 神風という言葉には、軍国主義の匂いと悲しい記憶がにじんでいる。しかし、神風特攻隊よりも前に大空を飛んだ、もうひとつの『神風』の存在を知る人は意外に少ない。今から62年前、リンドバーグのように世界をアッと言わせた若き飛行士が日本にいたことをご存知だろうか。

 飯沼正明、彼は国産機『神風』号に操縦士として(塚越機関士と共に)乗り込み、昭和12年4月、東京・ロンドン間約1万6千キロを、94時間17分56秒という当時としては驚異的なスピードで飛行、日本初の航空世界新記録を樹立した。

 神風号は、朝日新聞社所有の民間機であった。写真の電送技術が発達していなかった当時、原稿や写真を一刻も速く社に届ける航空部の責任は重く、社運をかけた新聞社同士の航空記録合戦もし烈を極めていた。昭和12年元旦、朝日新聞は『亜欧連絡記録大飛行』と銘打った七段抜きの社告を掲載する。飛行目的は「国産新鋭機でイギリス新皇帝ジョージ六世戴冠式に祝賀親善飛行する」というものだったが、話題性はむしろ「記録」の方にあったと言っていいだろう。

 その頃、アジア・ヨーロッパ間、空のスピード新記録樹立は日本国民にとって大きな関心事だった。フランス航空省が、パリ・東京間、百時間以内の飛行記録樹立者に懸賞金を出したため、多くの欧州の航空人が記録に挑戦、数名の死者まで出すという挫折をくり返しながら日本の新聞紙面をにぎわせていた。

 昭和11年、フランスのジャピーという若い飛行士が記録達成目前で佐賀県背振山に墜落、重傷を負う。ヨーロッパ側からの挑戦が一方的に報じられる中、日本国民の日本航空界への期待は高まった。そのタイミングで発表された『亜欧連絡記録大飛行』であったから、国民が興奮したのも無理はない。朝日が紙上で飛行機の愛称を公募すると、全国から53万通もの応募があり『神風』という名が命名された。航空技術の発達したヨーロッパの空の勇士たちさえ失敗した挑戦にアジアの小国が挑もうというのだから、『神風』という名には国民の悲壮な祈りが込められていたのかもしれない。


世紀の鳥人、日本のリンドバーグ


 栄えある神風の操縦士に選ばれた飯沼は、当時25才。朝日新聞社航空部に所属する優秀な飛行士だった。大正元年、長野県南安曇郡南穂高村の豪農の五男として生まれ、小学校5年のとき隣り町出身の飛行士がサルムソン2A型で郷土訪問飛行するのを見て民間航空の飛行士になる夢を抱く。三才で母を亡くし、松本中学5年のときに父親も亡くした彼が進路を決める頃、飯沼家の経済状態はけっして良くなかった。親代わりの長兄は、学費のかからない陸軍士官学校に行くことを勧めたが、

「自分は軍人には向かないから」

 と民間飛行家を志し、五十倍の難関を突破して逓信省委託学生となる。一等操縦士の資格を得て朝日新聞社航空部に入社。その後の民間航空操縦士としての彼の活躍はめざましい。昭和9年、東京・北京間、日中処女航空路開拓。昭和10年には、台湾大震災の原稿フィルムを台北から空輸、平均時速240キロで飛び話題を呼んだ。そして昭和12年、ついに『神風』号の操縦士に抜擢される。今ならさしずめ宇宙飛行士に選ばれる以上の栄誉だろう。郷里では記録大飛行成功を祈って神社に祈祷する者が詰めかけたという。

 その前年、記録達成目前で佐賀県山中に墜落一命をとりとめたフランスの飛行士ジャピーは、神風号の成功のため飯沼たちに多くの情報提供をしてくれていた。神風号が飛び立つ際、ジャピーは飯沼にこう言ったという。

「カミカゼはお国のために飛ぶのですか?
 パイロットにとって大切なのはリンドバーグのような心です。
 あせってはダメ、私のように失敗してはいけません」

 4月2日午前1時44分、神風号は立川飛行場を飛び立った。しかしその日の夕刊には、「神風号、引き返す」の見出しがある。九州上空で豪雨に合い、送信も受信も不可能になったのだ。前日の羽田での出発式は、日の丸の小旗を振る群衆約三万人、軍楽隊の演奏や皇室からの見送りも受けるという華々しいものだった。国の期待を一身に背負って飛び立ちながら引き返すのは、その時代、相当な勇気がいったことだろう。しかしこの「引き返す勇気」が結局、功を奏することになる。 

 三日後の4月6日、午前2時12分4秒、新記録樹立に向け再び立川飛行場を飛び立った神風号は、ジャピーがとった南コースを逆にたどり、台北・ハノイ・カルカッタと快調に飛行してロンドンを目指した。おそらく4月7日までは、欧州のジャーナリストの誰もが日本人による記録達成など想像しなかっただろう。しかし4月8日、神風号が地中海に差しかかるとヨーロッパの国々は色めき立った。英国のデイリー・エキスプレス紙は八日付け朝刊トップに

「知られざる飛行家、全スピードで記録更新中、明日ロンドン到着予定」

 と報じている。最後の中継地点、パリのル・ブルージェ飛行場は空前の人出。
 フランスの花形航空人が総出で飯沼たちを出迎えた。

 4月9日午後3時30分、神風号はついにロンドン郊外のクロイドン飛行場に着陸する。

 飛行場は群衆であふれ熱狂に包まれていた。その時、颯爽と降り立った飯沼の容姿にも人々は驚いたようだ。涼しい目に白い歯がこぼれるスラリとした美男子。ヨーロッパの人々が抱いていた日本人のイメージとはあまりにも違っていた。いずれにしても、この成功が日本の航空技術の名を高め、国際親善の役割を果たしたことは言うまでもない。帰国後、飯沼たちは日本国民の歓喜に迎えられる。当時の凱旋パレードの記録写真やニュースフィルムを見ると、サッカーのワールドカップに優勝して帰国したらこんな風だろうか、と思えるほどの熱狂ぶりだ。

 飯沼の故郷、長野県安曇野の地には『飯沼飛行士記念館』がある。当時の様々な写真や新聞記事などが古い生家や資料館に数多く展示され、彼の偉業と当時の興奮をいまに伝えている。記録樹立後も彼は『東京・ニューヨーク間無着陸飛行』という夢の実現に向け努力をつづけていた。しかし昭和16年12月8日、太平洋開戦。その数日後の12月11日に、飯沼はマレー戦線で戦死している。その死に関しては、飛行場で味方機のプロペラに巻き込まれたという説もあるが定かではない。まだ三十才の若さであった。

飯沼飛行士が最後に見た夢は何だったのだろう。

リンドバーグのような心で、自由に大空を羽ばたく日を夢想していたのかもしれない。





おわり






Comment


この原稿は、ライターの仕事として依頼され書いたものなので
絵本カフェに入れるには、かなり異質です。

ただ、この取材を通し、わたし自身、こういう人が戦前の日本に存在したということを
はじめて知りました。そして少しでも、多くの人に知って欲しいな・・と思います。

現存している記録と、主に安曇野にある「飯沼飛行士記念館」にて
飯沼飛行士の甥(おい)にあたられる館長さんから、
直に取材し、書かせていただきました。

取材のため記念館を訪れた頃は、まだ夏の盛りでした。入道雲がもくもくとわきあがり
安曇野はむせかえるような緑と、清らかなせせらぎで迎えてくれたものです。

誌面に限りがあるため、取材した内容の10分の1も原稿に出来ませんでしたが
飯沼飛行士の死の謎(死の真実が諧謔され軍国主義に利用されたこと)や、
大記録を達成した時、同乗していた塚越機関士のこと
(フランス人の母を持つ混血として生を受け、大変な苦労をされた方です)

飯沼と塚越、この二人の深い友情を中心としたさまざまな人間ドラマなど
まさに「現実は小説より奇なり」を地でいく秘話がいくつもあるのですが

その全部をご紹介できなくて、残念です。

ぜひ、安曇野に行かれることがあれば「飯沼飛行士記念館」に立ち寄ってください。

あらためていま、平和への祈りをつよく胸に誓いながら、
飯沼飛行士のように、夢途中で戦争に翻弄され、若くして散っていった
多くの人々がいたことを、ぜったい忘れてはいけないと思います。

そして彼らの分も、この国は

“夢を忘れてはいけない”と思います。


Akemi


飯沼飛行士記念館

所在地 長野県南安曇郡豊科町3888番地
TEL 0263(72)9045

開館時間 午前9時〜午後5時
休館日 月曜日、および祝祭日の翌日
入館料 大人(高校生以上)400円



 ←上の記事が掲載された
    雑誌「ストックヤード」99秋号



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