にじ

文と絵・むらた あけみ

第九章 ときめきの入り江
<ばら色の風>


「あの子には“海をとぶつばさ”があるの…」

そよ風に鳴る鈴のようなフラウディーテの声も、競技場にこだましていた歓声も、いつのまにか潮騒のように遠のいていました。生き生きと輝いていた時間も興奮も、いまはすべて、動かない一枚の石のレリーフのなかに封じ込められてしまったようです。


「あれから、エルテミスはどうなったんだろう・・」

競技会の熱気にまだ少し酔いながらリトがつぶやいたとき、鳥のからだが、ゆさっと揺れました。すきとおった鳥がとなりの枝にとびうつったのです。ガラスコップのソーダ水に浮かぶサクランボみたいに、リトたちは鳥のからだの中でたぽんたぽんと揺れました。鳥がとびうつった振動で、熟れた果実がいくつか枝からこぼれ落ちました。落ちた果実のあったところに、また新しいレリーフが顔をのぞかせています。その一枚を見たとたん、リトが歓声をあげました。海面からジャンプした瞬間の、息をのむほど美しいイルカの姿が描かれていたのです。空中に弧を描く優美なシルエットはもちろん、イルカのからだからしたたり落ちる、海水のひとつぶひとつぶまで繊細に彫り込まれています。

「ひょっとして、このイルカは・・」

リトが声を詰まらせてつぶやくと、クプカがすぐに答えました。

「うん・・まちがいなく“最初のリト”だよ。
 ほら、ひたいに、三日月のような印が見えるだろ?」

たしかに、小さな三日月のような印がイルカのひたいに浮かんでいます。“最初のリト”には、そんな形のアザがたしかにあったというのです。

レリーフのすみずみまで眺めているうちに、しだいに他のものも目にとまりました。イルカがジャンプしているのは、どうやら入り江をしきってつくった広い囲いの中のようです。入り江のうしろ側の高台には、あの白い宮殿がそびえています。

「あそこにいるのは・・エルテミスじゃない?」

岸辺に描かれた一人の若者に気づいて、リトが言いました。たしかにそれは、競技会の時にくらべまた少し成長したエルテミスのようです。少年の頃の面影を残したまま、エルテミスはジャンプするイルカをじっと見つめています。

「あの競技会のあと、エルテミスに何があったか、すこし話そうか」

クプカがそう言ったかと思うと、石のレリーフが光と色と音をとりもどして、また生き生きと動きはじめました。どこからともなく、潮の香りや波の音も漂ってきます。


ザッバーン!

突然、水しぶきが高くあがりました。レリーフのなかで止まっていた石のイルカが、命をふきかえしたのです。朝の光りが、さざ波に反射してキラキラ輝いています。何度かジャンプをくり返したあと、岸で見つめるエルテミスの方へ、イルカは泳ぎはじめました。エルテミスは身をのりだして、うれしそうにイルカを抱き寄せます。

「キュルキュル・・」

いたずらっぽい笑い声をたてて、ふいにイルカはエルテミスを水のなかへひっぱり込みました。

「あっ」

おどろいて声をあげながら、エルテミスはもうイルカの背ビレにつかまって気持ちよさそうに泳ぎはじめています。それにしても、なんて楽しそうなんでしょう・・まるで、二頭のイルカがたわむれているようです。


あの競技会に優勝した“ほうび”として、エルテミスは奴隷から市民になることを許されました。王は能力のある者に対して寛大(かんだい)なところがあったのです。彼の王国が急速に大きくなったのも、そんな王のやり方が、国民や兵士たちにやる気を起こさせたからでした。

エルテミスに対しても、王は宮殿の敷地内に仕事まで与えました。

「かつての敵国の王子を、宮殿の敷地内に入れるなんてとんでもない!」

家臣たちはみな反対しましたが、王はその意見をしりぞけました。といっても、べつに思いやりからそうしたわけではありません。王はただ、エルテミスの力をどうしても利用したかったのです。

“宮殿の神事(しんじ)や祭りに使う海の生き物を捕獲飼育する”

それが、王からエルテミスに与えられた仕事でした。この時代、宮殿の神事や祭りは、戦さや政治と同じくらいに重要だったのです。なかでもイルカは“神の使い”として崇められていました。もしあの時、エルテミスの命を救ったのがイルカではなかったら、王がエルテミスを助けたかどうかあやしいほどです。

“権威の象徴”でもあるイルカを捕獲しようと、近隣諸国の王たちはみな、やっきになっていました。でも頭のいいイルカはそう簡単に捕まりません。そんなとき、競技会でのエルテミスの活躍が、王の目にとまったのです。あれからエルテミスは、宮殿の敷地内にあるこの入り江の近くに小屋をもらって、ひとり住んでいました。質素なくらしですが、奴隷の頃に比べれば、天国のような生活です。それに何より、イルカたちと過ごせることが、エルテミスにはうれしいことでした。

王の予想どおり、エルテミスには特殊な能力がそなわっていました。いったん彼が海に出れば、イルカをはじめさまざまな海の生き物が、まるでエルテミスに吸い寄せられるように集まってきたのです。おかげで、王もエルテミスの働きぶりにはいたく満足していました。


ひとしきりイルカと泳いだエルテミスは、白い砂浜の岩かげにねそべって、陽の光りにからだを乾かしていました。波の音と潮の香り・・イルカのヒレが時おり海面をたたく音が響いています。どれくらい時間が過ぎたでしょう。目をとじていると、エルテミスの耳に美しい歌声が聞こえてきました。それはまるで、天国から降りそそいでくるようなやわらかな声です。

エルテミスは起き上がり、その歌声の聞こえてくる方を見て、きっと夢を見ているのだと思いました。やわらかな白いドレープのドレスを身にまとった美しい少女が、水ぎわで素足をぬらしながら、波とたわむれていたのです。

エルテミスは、幼い頃すごした宮殿の大広間にかけられていたタペストリーを思い出しました。その中に描かれていた“花の精”に、少女があまりにも似ていたからです。幼い頃、エルテミスはその花の精を見るのが好きでした。よくぼんやりながめていて、兄さんたちにひやかされたものです。

少女が歌をうたうと、入り江にいるイルカたちがすべて集まってきました。どのイルカも丸いひたいを海面にぴょこりと出して、少女の歌声に聞きほれています。少女も長いドレスのすそをぬれないようにつまみあげると、ぴちゃぴちゃとイルカたちのいる海のなかへ入っていきました。

少女のまぶしい白い素足を見た瞬間、エルテミスはなぜかドキドキしました。エルテミスがここで見ていることに、少女はまだ気づいていないようです。ヒザのところまで水につかりながら、イルカたちに何か話しかけています。イルカたちもけっして逃げようとはしません。自分以外の人間に、こんなになついているイルカを見るのは、エルテミスもはじめてでした。


そのとき“最初のリト”が少女に答えるように首をたてに大きくふりました。そして、くるっと向きを返ると、なんとエルテミスのいる方に泳いでくるではありませんか!これには、エルテミスも、さすがにあわてました。“最初のリト”の行き先を目で追っていた少女の視線が、自分の姿を見つけたからです。

あのタペストリーの中に住んでいた“花の精”が振り返って、いまエルテミスを見つめ、少しはにかんだようにほほ笑みかけているではありませんか。


ふたりは、離れた場所からしばらくだまって見つめあっていました。


永遠に重なる一瞬があることを、ふたりははじめて知りました。

花の香りをふくんだ、ばら色の風のように

目には見えない何かが、ふたりの間に流れていきます。


自分のドレスがみじかくあがっていることに気づいた少女は

ぱっとほほを赤らめると、あわてて浜辺にもどり

ドレスのすそを直しました。


それからもういちど、恥ずかしそうにエルテミスを見あげ

朝の光りのなかで、やさしくほほ笑んだのです。




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