【エッセイ】

おじいちゃんのバター飴

文と写真 Akemi Murata


 北海道に“バター飴”という名のお菓子があることを、ご存じでしょうか。

 バター風味の白い飴を雪片のように小さく刻み、パウダースノーのような粉砂糖にコロコロころがした、ただそれだけの素朴な飴です。長い間、北海道みやげの定番として愛されつづけて来た一品ですが、北海道には、もっとシャレたネーミングのお菓子や、高級な材料をふんだんに使った銘菓がつぎつぎ生まれていますから、『代表的北海道みやげ』の地位は、もうとっくに明け渡しているかもしれません。それでも“バター飴”は、少なくとも私にとって、永遠に特別な“北海道みやげ”でありつづけることでしょう。

 その味が好きだから?  いいえ、そうではありません。

 バター飴には、遠く忘れられない思い出が、
     ひっそり雪のように、降り積もっているのです。


 おじいちゃん(父方の祖父)は、私が五才の時に亡くなりました。祖母は私と入れ替わるように他界したそうですから、私が五才になるまでの間、わが家は(祖父、父、母、兄、私)の五人家族だったことになります。とはいえ、幼かった私には、祖父に関する記憶がほとんどありません。わずかに残った思い出も、どこかぼんやりとうすモヤがかかったようです。

 それでも祖父を思うと、いまも心がふわっと暖かくなるのはなぜでしょう。

 どうやら私は大変な“おじいちゃんっ子”だったようです。祖父も仕事を引退していて時間的に余裕があったのでしょう。子どもは息子しかいなかったので、はじめての女の子の孫が珍しかったのかもしれません。とにかく、ちいさな私をひざのうえに乗せ、陽の当たる縁側などでいつも遊んでくれていたようです。

 そのせいでしょうか、きれぎれのフィルムが回り出すように、祖父と過ごした日々がふいに明滅してよぎる瞬間があります。それはおそらく、私の心のいちばん奥の引き出しにしまい込まれた記憶、人生のはじまりの季節に降った“思い出の欠片たち”かもしれません。


 祖父の髪の毛は銀色でした。白髪というよりはキラキラ光るみごとな銀髪で、色の白い細面の顔に、その髪はとてもよく似合っていました。朝は、庭でラジオ体操や寒風摩擦をしていました。真冬には、上半身裸になった祖父の体から湯気が白くもうもうと立ち昇っていたことを覚えています。

 あと、変なことを妙にハッキリ覚えているものですが、祖父は入れ歯を使っていました。毎朝、洗面場の窓辺で入れ歯を手に持って、歯ブラシで念入りに磨くのです。さながら儀式のような所作で磨き上げられた入れ歯は、陽の光りにかざされ燦然とキラメイタあと、祖父の口にカパっとはめ込まれます。それから祖父は、洗面台の下で興味しんしんに見上げている私に顔を近づけ、カチャカチャっと噛み合わせて見せると「どうだい?」というように、ニッと白い歯を見せて笑うのです。

“おじいちゃんの入れ歯”は、なぜかその頃、私の大のお気に入りでした。
『あれがほしい』と、心底(しんそこ)願ったものです。

 他にも、祖父を思い出すと浮かんでくるシーンがあります。当時わが家には、子どもの手の届かない高い棚に“水飴”の大きなガラス瓶が置かれていました。祖父はこっそり(おそらく母に内緒で)時々、私にそれを食べさせてくれました。重い大きな瓶をよっこらしょと下ろすと、アルミの蓋をうやうやしく取り、わりばしを水飴の中に突き刺してクルクル巻き取ってくれるのです。味もさることながら、熔けたガラスのようにキラキラ光る水飴がなんともキレイで、魅力的に見えたものです。適度な大きさになると糸を引く水飴を切ってハイっと手わたしてくれます。水飴を堪能しているときの私の顔は、さぞかし“ご満悦”だったのでしょう。祖父はニコニコしながら、私がぜんぶ食べ終えるまで見つめていました。

 そんな“甘いおじいちゃん”のイメージとかけ離れた記憶もあります。祖父は、長く謡曲をたしなんでいましたが、仕事を引退してからは芸にますます磨きがかかり能楽堂の舞台にも立っていたようです。だから一日の何時間かは、袴(はかま)姿で座敷に正座して謡っていることがありました。話し声はまるで記憶にないのですが、家中に朗々と響きわたっていた謡の声だけは、今も体の芯が覚えています。子ども心にも、『いまジャマをしちゃいけない』と分かるほど、背筋をピンっと伸ばした祖父の姿には、凛とした佇まいがありました。


 そんな祖父がガンに侵されたのは私が五才になった頃です。発見しづらい膵臓癌だったので気づいた時には手の施しようもなく、しばらく入院した後そのまま病院で息を引きとりました。もちろん、そういう事情を知ったのは、もっと後になってからのことですが、病院から祖父が、わが家に無言の帰宅をした夜のことは覚えています。その思い出は、まるで夢の中の出来事のように、どこか不思議なベールに包まれているのですが・・・。


 ざわざわと大人たちが出入りする気配に目を覚ました私は、その夜、隣の座敷からもれてくる明かりにふすまを開けました。すると、広い座敷の真ん中に布団が敷かれ、顔に白い布をかけられた誰かが眠っています。そこは、もともと祖父がいつも寝ていた部屋ですから、私はすぐ「おじいちゃんが帰って来たんだ」と思いました。うれしくて白い布を取ると、やはりそれは、なつかしい“おじいちゃん”です。

 祖父は、透き通るように美しいお顔をしていました。揺り起こそうとしたかどうか、その辺はよく覚えていません。ただ、久しぶりに会えたことがうれしくて、私はその布団に潜り込みました。おそらく『死』という認識などまだ無かったのでしょう。恐いなんて感覚は微塵もありませんでした。

 あれは、花か線香の匂いだったのでしょうか?
   なんだかとってもイイ香りがしたことを、幽かに覚えています。


 後から母に聞くと、あの夜、通夜の準備に席を立ち座敷に戻ったら、祖父の亡骸に寄り添って私が眠っていたそうです。スヤスヤと安心しきって眠っている姿を見たとたん、こらえていたものがいっぺんにこみ上げて来たと言います。


 わが家は、それから四人家族になりました。

   

 数ヶ月後のことです。

 ひとつの郵便小包がわが家に届けられました。
 それは北海道で投函されたモノでした。
 けれどわが家に、北海道に住む知り合いや親戚などいません。
 差出人の欄を見た母は、その時さぞかし驚いたことでしょう。

 何しろ、そこには“祖父”の名が書き込まれていたのですから・・・。


 父が帰宅するのを待って、包みは家族4人のまえで開封されました。

 包みをほどくと、それは『北海道のバター飴』だったのです。


 このエピソードには、後日談があります。

 “おじいちゃんのバター飴”が届いてしばらくした頃、祖父の古くからの友人たちが、わが家に訪ねて来たのだそうです。遺影に手を合わせた後、その中の一人が、照れ臭そうに頭を掻き掻き話し始めました。あのバター飴を、祖父の名で北海道から送ったのは、自分たちだと言うのです。

 それによると、北海道旅行は旧友同士で楽しみに計画していたものでした。ガンで倒れさえしなければ祖父も一緒に行く予定になっていたそうです。病院に見舞った時、彼らは「元気になるまで待ってるから、一緒に北海道へ行こうな!」と祖父を励ましたそうです。けれど、病名を知らされていなかったものの、うすうす感じていたのでしょう。祖父は彼らにこう頼みました。

 「いや、自分はたぶん北海道には行けないだろう。
  でもかわりに、みんなで向こうに行ったら自分の名で、
  孫たちに“バター飴”を送ってやってくれないか・・・」

 そして祖父は亡くなり、彼らは祖父との最後の約束を守ったのです。


 このエピソードを聞かされたのは、もちろん私が大きくなってからです。

 ただ、北海道から“おじいちゃんのバター飴”がわが家に届いた日のことは覚えています。父と母には、おそらく大体の見当はすぐについたことでしょう。でも、どこかで『おじいちゃんは、北海道旅行中なんだ』と、思いたかったのかもしれません。

 とにかく、祖父が亡くなってからすっかり沈んでいた家のなかの空気が、あのバター飴のひと箱でパッと明るくなったことだけは確かです。“北海道”という地名はあの日から、バター飴の箱に描かれていた雪原の風景と、祖父のやさしい笑顔も折り重なって、私たち家族の心の奧ふかくに刻み込まれたような気がします。


 この頃、ふと思います。

 ひょっとしたら祖父は、病院のベッドで“自分が死んだ後の家族の悲しみ”まで気遣っていたのではないでしょうか。友人たちに“おじいちゃんのバター飴”を託し、それが届いた時の家族のこと、美味しそうにバター飴を食べる孫の顔を夢想しながら、

『いつまでも見守っている』と、告げたかったのかもしれません。


 遺品の腕時計に耳を寄せて、コチコチと刻む音を聞いていたら、
 なんだか無性に、そんな気がしてならないのです。


【END】



Comment


いつか、祖父のことを書いてみたいと思っていました。

書くことで、また祖父に出会えたような気がします。


Akemi


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