【エッセイ】

三面鏡の彼方に

文とCG ・Akemi Murata


 子どもの頃、母の三面鏡(さんめんきょう)でよく遊んだ...と言っても、お化粧ごっこをするためではない(もちろん母のおしろいや口紅をこっそりぬる遊びも時にはしたが)、それよりも“三面鏡そのもの”につよく惹かれていた。三面鏡の左右二面の鏡を細めに開き、その隙間に体をすべり込ませて中をのぞき込む。

 すると、果てしなくつづく鏡の回廊が、左右にまっすぐ伸びていた。

 さながら万華鏡(まんげきょう)の中に自分自身が迷い込んだよう・・遥か彼方までつづく回廊には、無数の壁面が浮かび上がり、そのひとつひとつに一人ずつ「私」がいた。向こう側から一心に息をこらし、こちらを見つめている無数の「私」。それは鏡の作用に過ぎず、自分の姿が映っているだけなのだと、もちろん子どもでも知識として知ってはいたが、鏡の中に映っているすべての「私」が、みんな全く同じだとはどうしても思えなかった。

 よく目を凝らして探せば一人くらい、ほんの少しちがう子がいるんじゃないか。

 あるいは突然、その中の一人が手を振りながら駆け出して来て、私を「むこう側」へ連れて行くかもしれない.....そんな空想をしながら、「ごはんですよ」と台所から夕飯を知らせる母の声に引き戻されるまで、あきもせず三面鏡の中に広がる無限の世界に遊んでいた日がよくあった。部屋の窓から夕焼けの色がすべりこみ、三面鏡の中の世界もほんのり薄紅色に染めあげる頃、こちら側とむこう側の境界線は妖しくぼやけ、おぼろになっていったものだ。


 思えばいつもそんな風に「むこう側」と接して生きてきた気がする。

 もの心ついた頃からずっと、見えない向こう側に憧れ、聴こえない音や声に耳を澄まし惹かれつづけてきた。向こう側なんてあるのか?そう聞かれれば、証明はできない。けれど、やはり「ある」と答えるだろう。それがどんな世界なのかは分からない。俗に「あの世」と呼ばれるものなのか....いや、それとも少しちがう気がする。ただ、見えたり聞こえたり触れられる、こちら側の世界だけが本当の世界だとはどうしても思えない。あの日、夕焼けに染まりながら三面鏡の中にひろがる世界に惹かれつつ“ほんの少しちがう子が一人くらいいるんじゃないか”と探していた自分が、いまも私のなかには住みつづけているのだろう。

 生まれた時に埋め込まれた「知」とは違うアンテナがある。

 そして、そのアンテナが時折「むこう側」から送られてくる信号を幽かにキャッチする。けれどそれは、けっして畏ろしいものではない。境界線にピリリと触れる瞬間、涙があふれるほどの喜びに全身が満たされる。ふきすぎる風のなか、空を見上げているとき、木や自然に触れているとき、あるいは夢のなかで、また時には意味もなく突然に....その信号は送られてくる。ひょっとしたら信号はいつも降りつづけているのかもしれない。ただ、肉体という容器の中に暮らし、起きている状態の心は凝り固まり、さまざまなストレスを抱え自由になりきれずにいるのだろう。心のスイッチがニュートラルになっていないと信号はなかなか受信できない。そう言えば子どもの頃、雨あがりの日にキラキラ光る水たまりを見て『どこか別の世界に通じる入り口かもしれない』と思った記憶がある。それは、子どもらしい空想に過ぎなかったのかもしれないが、今もそんな風に「むこう側」に接するトビラを探している自分が、どこかにいる。


 あれから月日は流れ、やがて私も自分の鏡(時代も変わり三面鏡ではなくドレッサーという名称の一面鏡になったが)を持って他家に嫁いだ。けれど一面鏡には、残念ながら「無数の私」など映らない。ただその分、年を重ねるごとに、自分の内なる世界に存在する無数の自分に気づかされ、うろたえたりとまどったりする事も増えた気がする。どうやら心の迷宮の方が、鏡の世界よりも遥かに不思議で複雑なのだろう。鏡に映っている姿カタチを凝視しても、自分自身の本質など何も見えてはこない。「探せば一人くらい、ほんの少しちがう子がいるんじゃないか」そう感じたあの日と同じように、ひょっとしたら今も、自分の内面にひろがる万華鏡の中をのぞき込んでいる途中なのかもしれない。

 母の花嫁道具は、家族の歴史とともに買い替えられ、今はほとんど実家にも残っていない。ただ、あの三面鏡だけは、新しいものに買い替えられることもなく母の人生を映しつづけた。この一月で、母が亡くなって五年になる。一年半ほど前、母の後を追うように父も他界し、主人(あるじ)を失った実家の片隅には、あの三面鏡がぽつりと遺されている。『いまごろ暗い部屋のなかで、あの三面鏡はどうしているだろう....』そんな風に、ふと思い出す瞬間がある。そう思うと、はじめは悲しくてたまらなかった。でもこの頃、私はこう思うことにしている。

 胸のうえに両手を重ね瞑想する人のように、三面鏡は鏡を閉じ合わせ、内なる無限の広がりの中に今も、さまざまな思い出をきっと映しつづけている....と。嫁いだばかりの頃の若々しい母、子どもたちを育てるのに懸命だった母、少し落ち着いてからは好きだった着物の帯をしめ晴れやかに振りかえる母、時には母の苛立ちや淋しさ、焦燥や孤独も見つめながら.....母の女としての人生のひとコマひとコマを、きっと三面鏡は覚えているだろう。そして、その滑らかな鏡の肌の上には、ひょっとしたら幼い日の無数の「私」と、あの日の夕焼け空もひろがっているかもしれない。

 遠く遥かに、むこう側とこちら側の境界線を、ぼんやり妖しくにじませながら。

 

 

 

【END】



Comment

亡くなって五年もたったのに、なかなか母のことに触れられずにいました。

まだ真っ正面からは向き合えずにいますが、母の三面鏡を通して

ようやくほんの少し、書くことが出来た、

そんな気がします。

2001年1月

Akemi


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