「冬の桜」  ひなた



桜の絵が好きだ。
油絵でも水彩画でも日本画でも。
華やかな桜。
淡い桜。
描く人によって、これほどイメージの変わる花も珍しいと思う。
だから、
私は桜の絵が好きだ。
どんな思いを秘めた桜でも。


春に入ったとはいえ、吹く風はまだまだひやりと冷たい。
そんなある日、私は街中にある小さな画廊に来ていた。
ドアのノブをにぎり、その重いドアを開ける。
カロ……ン。
軽やかなドアチャイムの音が鳴った。
同時に、まだ油の乾ききらないあの独特な臭いが、私の鼻をくすぐる。

ここは街にある唯一の画廊だった。
店構えは古いが圧迫感のない程よい広さの店内は、オーナーこだわりの和紙の壁紙に包まれていた。
壁紙は、ほのかに黄色く色あせ、柔らかな色合いになっている。それがとても落ち着くのだ。
絵を描くのは苦手だけれど、見るのが好きな私は、気安さもあって、いつの間にかこの画廊の常連になっていた。

画廊では、今日から春の花をモチーフとした絵の展示が始まっていた。
初日だけあって、朝もまだ早いのにすでに数人のお客が来ている。
小さな声で楽しそうに話しながら、皆ゆったりと絵を見ている。
私は、奥ですでに女性の人と話をしているオーナーに軽く会釈をすると、じっくりと絵を鑑賞することにした。
小さな絵から大きな絵まで。
油絵、水彩画、日本画、そしてパステル画。
様々な技巧を凝らして、数人の画家達が春を競い合っている。
私は、目が眩むほどの鮮やかな花達に目を細め、見て回った。
だが、ある絵の前で、ぴたりと足が止まってしまう。
桜だった。

F50号。
縦90センチ、横1メートルほどの大きな作品だ。
でもそれは、額に入っていない、剥き出しの生々しい作品。
水墨画だろうか?
墨の濃淡だけで描かれたその絵は、
月の光に照らされた桜の大木から、
いくつもの花びらが踊るように散っている、そんな絵だった。

光も、
風も、
香りも、
時間も、
すべて感じられるのに。
どうしてこんなに悲しいのだろう。
胸が締め付けられるのだろう。
私は、辛くなり目線を絵からはずした。そして、絵の横に貼ってある紙を見つめる。
そこには、
『冬の桜』
と、タイトルが書かれてあった。
冬の……桜?

「和美ちゃん?」
ぽんと肩を叩かれた。
はっとして後ろを振り返ると、そこには心配そうな顔をしたオーナーが立っていた。
「どうしたの。難しい顔をして見ているから、声かけたけど」
「いえ」
私はゆるゆると首を振った。
全身から力が抜けていくのがわかる。
ほおっと大きく息をつく私に、オーナーは少し笑って言った。
「ちょっと、コーヒーでも飲もうか」
私はその言葉に甘えて、こくりと頷いた。

この画廊には、部屋の隅に木製の古い小さな机と二脚の椅子がある。
時間を掛けて、ゆっくりと見て欲しい。
オーナーの心遣いで、コーヒーを飲みながら一休みできる、そんなスペースが作ってあるのだ。
私とオーナーはそこに座り、コーヒーを飲んだ。
焙煎が効いた酸味の強いものではなく、柔らかな口当たりの良いコーヒー。
美味しい。
「落ち着いた?」
「あ、すいません」
恐縮して小さくなる私に、オーナーは、はははと軽く笑った。
「いや、いいよ。……あの絵ねぇ、独特でしょ?」
「はい。何か少し、怖かったです」
私は正直に白状した。
オーナーはうんと、ひとつ頷く。
「麻生さんって言うんだけどね。ほら、丁度、向かいに菜の花の絵があるでしょ。水彩画の」
「はい」
その絵は、小さな絵だったけれど、菜の花の眩しい黄色と空の青色がとても美しく、温かな作品だった。
「同じ人がね、描いたんだよ」
「え、本当ですか?」
信じられない。
あんな優しい絵なのに。同じ人が描いたなんて。
驚く私に、オーナーは続けて言った。
「桜だけなんだよ。桜だけが、色彩のないあんな絵になるんだ」
「どうして」
オーナーはゆっくりと首を振った。
「わからない。何も言わないからね、あの人は。僕も無理に聞こうとも思わないし。でもね、麻生さんはとても穏やかで優しい人なんだよ」
「そうなんですか」
私はぽつりと呟いた。
僅かに冷えたコーヒーを口に含む。
それは、温かかった時よりも、少しだけ苦く感じた。


あれから数日経った。
あの絵のことが、心から離れなかった私は、ずっとイライラしていた。
忘れられない絵はたくさんあるけれど、
それらは私の心の中でとても優しいものになってくれているのに、
あの絵だけが、こんなにも心を乱している。
こんなことは初めてだった。
私は会社のカレンダーをちらりと見つめた。
次の日曜日は、仕事も休みになる。
どうしてこんなに気になるのか。
確かめようと、私はもう一度あの絵を見に行くことにした。

ようやく日曜日になると、私は人ごみの少ない時間を狙って、朝早くに出かけることにした。
人に流されて見るのではなく、じっくりと見てみたい。そう思ったからだ。
今日はいつもより温かい。
春に近づいている、そんな柔らかな日差しが照る中、私は再び画廊のドアを開けた。

最終日だったが
、朝早いこともあるのか画廊には余り人が来ていないようだった。
静かな雰囲気が、画廊の中に漂っている。
落ち着け、私。
そう心の中で唱えながら、まずは、ゆっくりと他の絵を見て回った。
ひとつ、ひとつ。
そして、あの絵に辿り着く。
私はその正面に立ち、じっとその絵を見つめた。
ああ、やっぱり変わっていない。
泉から湧き水が溢れるように、
その絵からは、悲しみが溢れていた。
ただ、ただ、静かに。
悲しみの海にゆらゆらと揺られている、そんな深い想い。
私は、ひたすらにその絵を見つめていた。
瞳と、
心に、
しっかりと焼き付けるように。

そんな時だった。
ふと、横に人の気配を感じた。
ちらりと目をやると、そこには初老の男性が立っていた。
私よりもやや背が低くく、上品な感じのコートを着ている。
年は、70歳くらいだろうか。
穏やかな顔で桜の絵を見ていた。
いつからいたのだろう。全然気がつかなかった。
恥ずかしい。
私は、こそこそとその絵から離れ、男性に場所を譲ろうとしたが、
「この絵が気に入りましたか?」
「え?」
声のした方、男性を振り返った。
その人は、いつの間にか視線を絵から私へと移し、薄っすらと瞳を細め、優しげに微笑んでいた。
私はその笑みにつられ、話し始める。
「……気に入ったと言うより」
「はい」
「気になるんです。とても。なんでこの絵は、こんなにも悲しいのだろうって」
私は絵を見つめた。
男性もまた見つめる。

『冬の桜』

どうしてなんだろう。
どうしてこんなにも悲しいのだろう。
どうして……。
私の小さな呟きに答えるように、男性はぽつりと言った。
「そうですか。悲しいですか」
悲しげに呟くその姿に、何か深い意味が込められているようで、私は急に不安になった。
思い切って尋ねる。
「あの、あなたは、一体」
男性は振り返った。ふわりと笑う。
「私は、麻生と言います。この絵の、この冬の桜を描いた者です」


「ご注文は?」
「私はコーヒーを。和美さんは?」
「同じでいいです」
少々お待ちください。
若いウェイトレスはお辞儀をし、席を去った。
柔らかな早春の光が差し込む喫茶店に、私と麻生さんは向かい合わせに座っていた。
しばらくして、同じウェイトレスがコーヒーを運んでくる。
カチャリと音を立て、それぞれの目の前にコーヒーを置くと、彼女は無表情のまま去って行った。
その後姿を何気に見つめ、次にコーヒーから立ち上る湯気を見つめる。
私は何を言えばよいのか迷っていた。
ああ、緊張する。
聞きたいことがあった。
話したいことも。
でも、実際に本人に会うと、言葉が喉の奥に引っかかってしまったようで、なかなか出てこない。
どうしよう。
私はしっとりと汗で濡れてしまったその手のひらをぎゅっと握った。

「あの、和美さん」
「は、はい」
慌てて私は顔を上げる。
それがよっぽど可笑しかったのだろう、くすくすと笑いながら、麻生さんは言った。
「そんなに緊張なさらないで下さい。別に取って食うわけではありませんから」
「はあ」
耳が熱い。恐らく顔は真っ赤になっているに違いない。
そんな私に尚も楽しそうに麻生さんは話し掛ける。
「今日はいい天気ですね。冬も良いが、やはり私はこの季節が好きです。春が近づいて、命が動き出す、そんな季節が」
「私も好きです。元気でます」
灰色の曇りがちな空から、薄水色の空が顔を出す。
心も晴れやかになってくる。
「そうですか」
にこりと笑って、麻生さんはコーヒーを一口飲んだ。
それを見、私もふっと肩の力を抜くと、ようやくコーヒーにミルクを入れた。
ブラックからブラウンへと、色が変化したのを見ながら、私も口をつける。
ほのかな苦味。
カチャリと麻生さんがカップをソーサーに戻した。
そして、再び話し始める。

「あの絵をね、悲しいと言ったのはあなたが初めてですよ」
「す、すいません」
本人を目の前にして失礼なことを言ってしまった自覚はあったので、慌てて私は謝った。
しかし、麻生さんは首を左右に振った。
「いえいえ。気になさらないで下さい。逆に私はうれしかったのだから」
「え」
「私はね、若い頃から桜がとても好きでした。桜が咲き始めると、日本中をあちこと走り回って描いたものです。
それは、結婚してからも変わらなかった」
「……」
「妻は病気がちで、いつも床に伏せっていた。あの日も私はある桜を描きに行っていました。具合の悪い妻を置いて」
麻生さんはゆっくりと目を閉じた。
カップをにぎるその手には、力が込められている。
尚も麻生さんは続けた。
「その桜は今年が最後の桜でした。最後の力を振り絞り艶やかに咲き誇るその桜は、とても美しく、私は夢中で描かずにはいられませんでした」
辛いことを思い出させているのかもしれない。
私は不安になり始めていた。
麻生さんの手が小刻みに震えている。
「1日過ぎ、2日過ぎ、3日目でようやく目処が立ち、私は家へ戻りました。でも、そこに妻の姿はなかった。体調が急変し、病院へ行っていたのです」


時が戻る。

「私が慌てて病院へ駆け込むと息も絶え絶えな妻が、笑って言うんですよ」

『桜はかけましたか?』
『ああ、とても見事な桜だったよ』
『そうですか。それはようございました』

「笑うのです。とても嬉しそうに。その後、妻は息を引き取りました」
麻生さんは静かにそう言うと、目線を私へ戻した。
悲しそうに、小さく笑う。
「もう、20年も前の話です。それからなのですよ。私の目には、桜があの絵のようにしか映らない」
「え?」
「鮮やかなあの美しい桜が消え、私の目にはあの冬色の桜しか見えないのです」
「そんな、どうして」
「わかりません。病院でも見てもらいましたが、何の異常もないそうです。恐らく精神的なものだろうと、医者は言うのですが」
精神的なもの?
奥様を失ってしまったことが辛いのだろうか。
失ってしまっても尚、桜に魅入られていることが辛いのだろうか。
それとも、両方……。
贖罪。
何故かその言葉が浮かんだ。
「後悔、されているのですか?」
「いいえ。後悔なぞしたら、それこそ妻に怒られてしまうでしょう。
何より、私は描きたかったのだから。そして、今も。
描きたいと思う気持ちは大切なもの。
その情熱が失われてしまうことが、私は何より恐ろしいのです」

静かに、
静かに、
麻生さんは、話し続けた。

「……ただ、思い出すのです。うんと昔、妻がまだ元気だった頃、一緒に桜を見に行ったことを。満開の桜の下、私はスケッチ、妻は読書。空からは桜の花びらが降ってきて、とても美しかった。そんな、静かな時間が、ただ、ただ、愛おしくてね」
麻生さんはすっと目を細めた。
「記憶の中の桜はとても美しい。でも、私は今この目に映る桜を描いていこうと思っているのです。あの頃は、決して戻りはしないのですから」

どこか遠くを見ている麻生さんに、私は何も言えなくなってしまった。
麻生さんの決意が、胸に痛い。
でも、
「私はあの絵が好きです」
「和美さん?」
「悲しくて辛いけど、心引かれます。とても。……奥様もそうだと思います。きっと、愛してた。麻生さんの桜を。どんな形になっても」
最後の微笑みの意味は。
きっと、大切だったのだろう。奥様にとっても。

私は麻生さんの辛い過去をしってしまったけれど。
あの桜は美しいと思う。
愛おしいと思う。
あの孤高の桜。
あの冬の桜。

泣きたくなって俯いてしまった私に、麻生さんはぽつりと言った。
「ありがとう」
「麻生さん」
「本当にありがとう」
顔を上げた私に、麻生さんはゆっくりとお辞儀をした。


桜の絵が好きだ。
油絵でも水彩画でも日本画でも。
華やかな桜。
淡い桜。
描く人によって、これほどイメージの変わる花も珍しいと思う。
だから、
私は桜の絵が好きだ。
どんな思いを秘めた桜でも。

麻生さんは描き続けるだろう。
描きたいと思う、その情熱が失われない限り。
そして、その傍らには奥様がいるのだ。

『冬の桜』は私にとって忘れられない絵になった。



おわり




<コメント>

忘れられない絵があります。
大学生の頃に見た水墨画の桜の絵。
タイトルも作家名も忘れてしまったけれど、それでも私の中で一番の桜の絵なのです。





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