「黄金の森」  ひなた



故郷を離れて1年が過ぎた。
私は妻の心臓の病気に良く効くという、薬草を探す旅を続けている。
だが、
どんな薬草か分からないものを、
噂だけをたよりに、探し続ける日々は、
まるで雲を掴むようなもので、
……私はとても疲れていた。


日が陰り、森に闇が訪れた。
私は隣村で聞いた噂を頼りに、ある村に辿り着いた。
小さな、貧しい村だ。
子どもと女しかいない。
話によると、数年前から始まった大国同士の戦いに、男達すべてが借り出されたと言う。

「ひどいものよ」
夜も随分と更けた。
肌が薄らと寒い。
宿泊を快く応じてくれた老女は、囲炉裏へ薪をくべながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「戦のせいで、男共は皆連れて行かれた。畑も女、子どもだけじゃどうにもならん。この冬も越せるかどうか……」
あきらめなのだろうか。
老女は静かに語っていく。
「戦は何もええことはない。生み出すものは悲しみだけじゃ。……その悲しみのせいで狂ってしもうた者もおる」
「狂った者?」
老女は私の問いには答えなかった。
ただ静かに首を振るだけ。
私は何も言えなくなり、そっと、老女から目を逸らした。
部屋の隅では、まだまだ幼い子ども達が丸くなって眠っている。
やせ細った体を寄せ合って眠るその姿に、
私は、言い様もなく辛くなり、目を伏せた。

静かな時が流れ、
パチリと大きく薪が鳴った。
その音を合図に、私は視線を老女へと戻した。
私にはやらなければならないことがある。
「お尋ねしたいのですが」
こくり。
老女が頷き、私を促す。
「……この村に、心臓の病気に良く効く薬草があると聞いたのですが。ご存じないでしょうか」
老女はつかの間考え、
やがて、ゆるりと首を振った。
「いや、聞いたことがないのぉ」
「そうですか」
何度、目にしたことだろう。
何度、聞いたことだろう。
見たことがない。
聞いたことがないと、悲しげに首を振る人々。

「どんな葉をしているのかい?」
「わかりません」
「色も?臭いも?」
「ええ。噂だけを頼りにここまで来ましたから」
私は、苦く笑った。
愚かなことだと、わかっているのだ。自分でも。
しかし、
「誰か必要としていなさる方がいらっしゃるのかい?」
老女の問いに、私は微かに頷いた。
「妻が。心臓の病気で」

思い出すのは、
細く青白い手。
薄い唇に懸命に笑みを浮かべる妻。
不憫だと、
憐れだと思った。
そんな笑みしか浮かべることができない妻を。
涙を流していないだろうか。
さみしい思いをきっとさせている。
でも、何かしてやりたかった。
共に生きてほしかった。
ずっと。ずっと。

黙って俯いてしまった私に、老女はそっと息を吐いた。
ぽつりと呟く。
「見つかるとええのぉ」
「ありがとうございます」
老女の優しい言葉が私の心に溶けて行く。

深い、深い、夜だった。


次の日、私は朝早く老女の家を出た。
一刻も早く、次の村へ行かねばならない。
私は取り合えず、東へと向かい、歩き出した。

どのくらい歩いたのだろう。
空は僅かに紅色に染まり始めている。
道を一本間違えたのか、私は森の奥まで入り込んでしまっていた。
鬱蒼と茂る木々を何とか掻き分け、歩き続けていると、突然、視界が広がった。
目の前にはなだらかな丘が広がり、そこには、一本の木が立っていた。

黄金の木。

樹齢何百年もの、かなりの大木だ。
重たげなその枝から、ゆらりゆらりと黄金の葉を降らせている。
美しい、銀杏の木だった。
「見事だ」
私は感嘆しながら、吸い込まれるように、その木に向かい歩を進め、
ふと、歩を止めた。
その銀杏の木の下に、
誰かが倒れていたからだ。
あれは。
私は目を細め、じっと見つめた。
あれは、白い着物を着た……女だ。

私は慌てて駆け寄り、女の側に膝まづいた。
黄金の銀杏の葉が、ひらり、ひらりと、女の体に舞い降りている。
長い黒髪の女。
まだ若い娘だった。
娘は、左耳を地面に当て、まるで眠っているように目を閉じていた。
私は少しばかり躊躇していたが、意を決して娘に触れようとした。
その時。

「触らないで」
声が響いた。
きっぱりと私を否定する声。
そして娘の瞼がひくりと動き、持ち上がった。
茶色の瞳がうるさそうに私を睨んでいる。
……妻と同じ、茶色の瞳。
私はこくりと喉を鳴らし、尋ねた。
「君は、ここで何を?」
私の小さな呟きに、娘はっきりと答えた。
「聞いているのよ。こうして、耳を地面に当てて」
娘はうっとりと目を閉じた。
私は再び尋ねる。
「何を?」
「音よ。あの人の音。私を残して遠くへ行ってしまった、あの人の音よ」

さらり
私の目の前で
音もなく
舞った
一枚の
黄金の葉

「あの人、戦に行ってしまった」

「私を守るためだと、あの人は言ったわ」

「でも、そんなのいらない」

「嫌だって言ったのに。側にいてって言ったのに。それだけで良かったのに」

「あの人、行ってしまった。だから……」

娘は目を開けた。
私をじっと見つめる。
ほおに黄金の葉がふわりと触れた。
「こうしてあの人の音を聞くのよ。歩く音。笑う音。呼吸する音。涙する音。この大地はあの人へと繋がっているわ。どこにいても、どんな所にいても、あの人の音を聞くことができるの。あの人が生きているって、感じることができるの」
もう、さみしくないのよ。
そう呟き、娘は再び目を閉じた。
その唇には微かな笑みさえ浮かべて。

私は呆然と娘を見つめた。
ふと老女の言葉が脳裏を過ぎる。
『その悲しみのせいで狂ってしもうた者もおる』
この娘のことなのだろうか。
だが、
娘の瞳の力は決して失われてはいない。
言葉にも力が溢れている。
狂っているのだろうか。
本当に?

私は震えながら言った。
「死んでしまうよ」
娘は答える。
「いいえ。死なないわ。あの人の音が聞こえている限り。生きてあの人を待つの。あの人が愛したこの木の下で」
そして、
もう終わりだと言う様に、娘は静かに口を閉ざした。
微かに聞こえるのは、呼吸の音だけ。


ああ……。
私は見上げた。
紅と藍色が混ざり合う遠い空から、
金の葉が音も立てず落ちてくる。
女の悲しみを覆い尽くすように。
私の悲しみを覆い尽くすように。

『側にいてって言ったのに。それだけで良かったのに』

妻を思った。
旅立ちの日。
『早く帰ってきてね』
『ああ。薬草を見つけて、すぐに戻ってくるから』
『……』
妻は笑っていた。ただ、悲しそうに。
あの笑みの意味は?
気付かなかった。
妻の声を聞けなかった。

私はもう一度、娘を見つめた。
黄金の葉が、一枚、一枚と、娘に降り落ちてくる。
静かな光を放って。
美しい。
なのに何故こんなにも胸が痛むのだろう。
娘は狂ってなどいない。
ただ信じているのだ。
そして、娘は祈り続ける。
大切な人が自分の元へ戻ってくる日まで。
いつとも知れない長い時間を。
ただ、ひたすらに。
ただ、狂おしく。

私は立ち上がった。
帰ろう。私を待つ妻の元へ。
妻をこんな悲しい娘にしてはならない。
何かをしてやるのではなく、
ただ、側にいるだけで良かったのだ。

「生きていて」

大地は、娘の祈りに満ちている。
私はこの大地を踏みしめながら、家路につくのだ。

黄金の葉散る森を後にして。



おわり





<コメント>

音もなく散っていく銀杏の葉を見ていると、とても胸が痛くなります。泣きたくなります。
それでも、毎年、銀杏の木に会いに行くのは、
彼らが、ずっと待っていてくれているような気がするからなのです……。


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