「刹那の花」    ひなた



「泣きたくなったら、いってね」
突然、彼女が言った。

いつだったろう?
あれは、涼やかな風が吹く頃。
ちらちらと桜の花びらが散り始める、そんな季節に。
当時、流行っていた映画を見に行った時だ。
お互い仕事や何かで忙しく、ようやく取れた時間だった。
……悲しい映画だったと思う。
彼女の瞳は、真っ赤だったから。
その帰りの喫茶店でのことだった。

「え?」
僕は聞き取れなくて、思わず聞き返した。
彼女は、そんな僕に怒った風でもなく、アイスティーをストローでくるくるとまわしながら、つぶやく。
「だからね。泣きたくなったら、いってね。私、すぐ飛んでいくから」
「ウルトラマンみたいにかい?」
そいつは、すごいや。
あまりに真剣な顔で言うものだから、僕は思わず茶化してしまった。
彼女は今度こそ、拗ねたように、じっと僕を睨んだ。
「違うわ。真剣なのに」
「……泣けない男は、冷たい?」
あんな悲しい映画で、涙も出ない。
いつものことだ。いつものこと。
そう思われるのは、慣れているから。
でも、彼女の反応は違った。
彼女は、静かに首を振った。
きれいな黒髪が、ゆれる。ゆれる。

「心配なのよ」
「?」
「人は、思いっきり泣けないと病気になるから」
「……」
「あなたは、泣きたいのに、歯を食いしばって我慢してしまう人でしょう?」
「そんなこと……」
ない。
そう言おうとして、彼女の瞳とぶつかった。
澄んだ水のような瞳。
そこには、困った顔をした僕が映っている。
僕は目を逸らしたかった。見たくなかった。
でも、彼女の瞳が許してくれなかった。

彼女の瞳が問いかける。

キヅイテナイノ?
キヅキタクナイダケナンジャナイノ?
ホントウハ、サミシイノニ。

彼女は、目を閉じた。
そして、次に見せた瞳は、優しさに満ちた瞳。

「だから、私を呼んで?そうして、二人で泣きましょう。一人で泣くのはつらいけど、二人で泣くならさみしくないわ。そうすれば、きっと、歩き出せるから」
そう言って、彼女はきれいに笑った。
月並みだけど、花のように。

僕は、うつむいた。
コーヒーを飲もうとカップを上げたけど、飲めなかった。
心の中に、光がいっぱいつまって。
溢れそうで、苦しい。
これが、泣きたい気持ちなのかな?
僕は思った。
ぽつりと、思った。


私が、あなたの泣く場所になるの。
そういって、彼女は笑った。
……笑ったのに。

彼女は、もう、どこにもいない。
交通事故。
彼女が歩道を歩いていた時、居眠り運転のトラックがつっこんできた。
20歳の青年だったそうだ。
よくあること。
ニュースでも、よく聞くこと。
でも、まさか彼女の身に起こるなんて。
誰が想像できただろう。


空には月が出ていた。
星をも隠してしまう、厳かな光。
すすり泣く声。
悲しみの声。
読経が響く。
いたたまれなくなって、僕は外へ出た。
彼女の顔すら見えない。

どこへ行こう?
僕は、どうしたい?
どうすればいい……。

僕は、ひたひたと廊下を歩いた。
僕の足音だけが響いている。
静けさだけが満ちているここは。
まるで、別世界のようだ。
寒い。
僕は、僕を抱きしめた。
底の見えない悲しみが。凍えそうな漆黒の闇が。
僕を襲う。
孤独。
そんな言葉が、不意に浮かんだ。
失ってしまった、大切な人。

泣きたいんだよ?
もう、どこにもいない、彼女に問いかける。

でも、泣けないんだ。

思いは届かない。
決して、届かない。

……君がいないから。

僕は、縁側に出た。
目の前には、庭が広がっていた。
銀色の月の光に照らされて、ひっそりと、たたずんでいる。
きれいに手入れされた庭。
それは、彼女の庭だった。
彼女が大切に慈しんだ庭。
その中に。
一本のひまわりが立っていた。
そのつぼみは未だ固く閉じられていて。

そういえば、言ってたな。
ひまわりを、植えたんだって……。


『私、庭にひまわりを植えたの』
『ひまわり?』
『そう。私、ひまわり大好きだから。一度、植えてみたかったのよね』
『僕はあんまり好きじゃないなあ』
『どうして?』
『あの黄色と緑のコントラストがいけない。暑苦しいよ。好きじゃないな』
『でも、ひまわりは私の分身なのよ』
『?』
『だって、私、日向 あおいでしょ?日と向をひっくり返すと、ほらね。向、日、葵で、向日葵。ひまわりになるの。好きになってほしいなあ……』

彼女の好きだった花。
彼女の分身。
僕は、吸い込まれるように庭へ出た。
裸足のまま。
他には何も見えなくなっていた。

『サトル……』

彼女の声が聞こえる。
僕を呼んでいる。
幻覚?
それでもいい。
それでもいいから。

僕は、ゆっくりと、ひまわりへ近づいた。
つぼみに触れる。
「あおい……?」
呼びかけに、つぼみから銀色の光がこぼれ始めた。
さらさらと零れゆく光。
まるで、涙のように……。

僕は語りかけた。
祈りは、届くだろうか?

「泣きたいんだ。あおい。約束しただろう?……そばにいてほしい」

つぶやきが。
光となる。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
吐息のように、花、開く。

僕は、喜びでいっぱいになった。

ああ。覚えていたんだ……!

『ねえ。だったら、どんな色だったら好きになってくれる?』
『そうだなあ』
僕は上を見た。
上機嫌に晴れた空。
遠くまで。遠くまで。澄み渡った青い空。
『あんな空色だったら、好きになるな。きっと、きれいなひまわりになる』

空色のひまわり。
冗談で言ったのに。
かなわない。

月が見ていた。
僕の瞳から零れ落ちる液体が、止まることなく溢れ出るのを。
僕は泣いた。
思うがままに。
子どものように。
一人ではない。
二人で泣きましょう。
そう言ってくれた、彼女の存在を感じながら。

そんな僕を、空色のひまわりが、じっと、見ていた。

スキニナッテネ?
得意そうな彼女の声。

キライニナンカ、ナレルハズナイダロ?
ふてくされた僕の声に。

彼女は、笑った。
……高らかに、笑った。


朝の光が庭を照らし始めると、空色のひまわりは、ゆっくりと、消えていった。
安心したのだろう。
淡雪のように。ひっそりと。
薄青の空へと溶けていった。
でも。

「泣きたくなったら、いってね。私、すぐ飛んでいくから」

僕は忘れない。
彼女の笑顔を。言葉を。
思い出しては、泣くだろう。
優しい痛みは、僕を支配し続ける。
それでも。
僕は語りかける。
僕の心に生まれた、空色の花に。
きらきらと輝く、刹那の花に。
そばにいるから。そう、ささやいた彼女の瞳に。

イッショニ、アルイテイコウ……。


おわり






コメント

せつなさとはかなさを持つお話を書きたくて、書いてみました。
難しくて、うまく書き表せたかどうかわかりませんが……。少しでも、好きになっていただけたら、しあわせです。






 ←クプカ「きら星★」目次へ

  ←「さくら さらさら」とっぷへ





戻る