グライダー

作/かえる



 海を見下ろす切り立った崖の上に、原っぱが広がっていました。
 澄み切った青い空と原っぱの間にさえぎるものは何もなく、ただ風が吹き抜けます。
 夏の太陽に暖められた空気を海へと運ぶ、おだやかな風です。
 草花たちは細い茎をさわさわと揺らしながら、海へ向かって頭を垂らします。
 その囁きに応えるように、海は低い波音を辺りに響かせていました。
 一瞬、風が強まりました。
 囁きはざわめきへと変わり、原っぱはにわかに騒々しくなります。

 原っぱに男の子が一人、姿を現しました。
 彼はその小さな手に模型飛行機を持っていました。
 バルサ材を白く塗装した、グライダーでした。
 機体は男の子の二の腕ほどの長さでした。 大きな主翼と機体の後ろで垂直に交わる尾翼の他には、何もありません。
 プロペラやモーターを取り付けるには、機体はあまりにちっぽけでした。
 それでも男の子は、このグライダーを一所懸命に作ったのです。
 カッターナイフでバルサ材を切り出すときには、何度も自分の指を傷つけそうになりました。
 機体を白く塗るときには、そこら中をペンキだらけにしてしまって、お母さんに叱られたものです。
 紙飛行機を作るときの何倍も時間がかかりました。
 それがやっと仕上がったとき、男の子はたいへん満足でした。
 プロペラもリモコンもついてないけれど、このグライダーは青い空の上を滑るように、どこまでも飛んで行くだろう。
 そんな夢を見ながら昨晩、男の子は出来たばかりのグライダーを枕元に置いて眠りました。
 
 

 一夜明けた今日は、そのグライダーの初飛行だったのです。

 男の子はグライダーを片手に持ち、もう一方の手の指を、ぺろりとなめました。
 湿った指先を頭の上に差し出し、風向きを確かめます。
 本当はそうするまでもなく、風は明らかに陸から海へ向かって吹いていました。
 しかし男の子は、自分の指先で風を確かめたかったのです。
 まるでそれが初めての飛行に必要な儀式であるかのように。

 男の子は野球のボールを投げる要領で、飛行機を持った方の腕をふりかぶりました。
 そして飛行機が自分の背丈よりも少し上から飛び立つ角度で、ふっと手の力を抜きます。
 白いグライダーは、風に乗ってふんわりと飛び立ちました。
 機体はゆるやかな角度で上空を目指します。
 ある地点で機首を下げると、両翼をゆらゆらと揺らしながら、草花の上を滑っていきました。
 やがて白い機体が背の高い草に触れます。
 グライダーは飛ぶことを止めて、原っぱに横たわりました。
 飛行時間はほんのわずかだったかもしれません。
 しかし男の子にとっては、ちょっとした冒険旅行と同じ、大飛行に思えました。
 男の子は着陸地点に駆けより、グライダーを拾いました。
 白い機体に草のつゆが付いて、うす緑色に染まっていました。
 男の子は初めての飛行を終えたその雄々しい機体を、誇らしげに見つめます。

 男の子は再び、グライダーを空に向かって送り出しました。
 今度の離陸地点は最初の飛行距離のぶんだけ、崖に近づいていました。
 しかし男の子はグライダーを飛ばすのに夢中で、それに気付かなかったのです。
 男の子の手を離れたグライダーは、再びゆるやかに上昇を始めました。
 機首を下げ、滑空に入る瞬間のことでした。
 海に向かって吹く風が、一層強さを増したのです。
 グライダーは高度を保ちながら、追い風に乗りました。
 右側に旋回しながら、崖のふちに向かってすいすいと飛んでいきます。
 男の子は、思わぬ大飛行に喜ぶのもつかの間、慌てて機体を追いかけます。
 真白いグライダーは、ついに崖を越えました。
 右旋回の角度を深め、波の打ちつける岩場へと下降していきます。
 男の子は崖のふちで足を止めました。
 そして、波しぶきを背景にどんどん小さくなるグライダーを眺めていました。
 グライダーは崖の中程に出っ張った岩の上に、ふんわりと着地しました。
 男の子には、とてもそこまで降りていくことは出来ません。
 グライダーはもはや、男の子の足元のはるか下にある、小さな白い点に過ぎませんでした。
 それは強い風に煽られてもゆらり、ゆらりと揺れるだけです。
 二度と大空に向かって飛び立つことはないように見えました。
 男の子は、白く小さな機体を悲しげに見守っていました。

 グライダーは平らな岩場に降りていました。
 海はもう少し下の方にあるようです。
 それでも時折、大きな波が崖に打ちつけると、水しぶきが降ってきます。
 海から弾けた水は、グライダーの白い翼に点々と染み込んでいきました。
 機首を海側に向けていたグライダーの翼が、風を受けてふわり、ふわりと上下します。

 その姿は、海の青さと空の広さにおののいているように見えました。
 降り注ぐ波しぶきは白い塗装をみるみるうちに溶かし、バルサ材の翼を重く湿らせていました。
 そのときです。
 海の上から岩場をめがけ、白い鳥が近づいて来ました。
 鳥はグライダーの傍らに降り立ちます。
 それは、大きなカモメでした。
 カモメは、自分に姿の似た機体が横たわっているのを見つけると、一瞬ぎろりと睨み付けました。
 この岩場の片隅には、カモメの巣がありました。
 巣には小さなひなも居たのです。
 その場所に見慣れないものを見つけて、敵かもしれないと身構えたのでした。
 しかし、カモメより一回り小さい翼は一向に動く気配はありません。
 よく目をこらして見ると、それがグライダーであることが分かりました。
 カモメはすっかり安心して、バルサの翼の傍らで体を休めます。
 グライダーはカモメに寄り添うように、ただ機体を風に揺らしているばかりでした。
 
 グライダーを無くした男の子は、とても悲しんでいました。
 お帰りなさいと声をかけたお母さんにも生返事を返しただけで、部屋にこもってしまいます。
 ベッドに横たわり、目を閉じます。
 そして、真っ青な空を背景にすいすいと風を切る、白い機体を思い浮かべていました。
(僕はあれに乗って、空へ飛んでいくつもりだったのに)
 空想の世界で、男の子はグライダーを操るパイロットでした。
 機体と同じ、真っ白な飛行服に身を包んで、自由に空を駆ける冒険家です。
(なのにグライダーは、僕を置いていってしまった。たったの二回、飛んで見せただけで)
 それはとても悔しく、不公平なことに思えました。
 しっかりと閉じたまぶたから、一筋の涙がこぼれます。
 男の子は頬を伝う涙の雫を拭い、その指先を見つめました。
 心に大きな穴が空いたのを感じていました。
 手作りの飛行機だけではない、何か大切なものを無くしたような気持ちでした。
 そのとき、居間からお母さんの呼ぶ声がしました。
「お父さんが帰られましたよ。ご挨拶をなさい」
 男の子はまぶたや頬がしっかり乾いているのを確かめてから、居間に向かいました。
「お帰りなさい、お父さん」
 上着をハンガーに掛けようとしているお父さんの後ろ姿に挨拶をします。
 食卓の上に大きな紙包みがありました。
 振り返ったお父さんは、にっこりと微笑んで言いました。
「明日は誕生日だろう。おめでとう」
 男の子は大急ぎで紙包みを開けてみました。
 お父さんからのプレゼントは、飛行機のプラモデルでした。
「ありがとう」
 何とか声に出してお礼は言えましたが、男の子の気持ちは複雑でした。
 プラモデルの飛行機は、きっと男の子のグライダーよりも精巧に出来ていて、格好良いに違いありません。
 でも、それを手にしたところで、あのグライダーを初めて空に送り出すときのような、わくわくとした気持ちになれるだろうか。
 男の子は、そう思いました。
 プラモデルの箱には最新型のジェット機が、茜色の空を背景に雄々しく機体を傾けている様が描かれていました。
(この景色の中に、僕は居ない)
 そう思った男の子は、一度開いた包み紙を、そうっと元に戻しました。
 そして、その包みは二度と開かれることはなかったのです。

 海と空の境目からばら色の光がにじみます。
 やがてまばゆいばかりに輝く太陽が顔を出しました。
 海の上を吹き抜ける風が、朝日を受けて光る水面をざわざわと波立たせます。
 グライダーは、この岩場に降りたときと変わらぬ姿勢で、海に向かっていました。

 潮風を溶かすように優しく降り注ぐ朝日は、ペンキのまだらになった機体を白く輝かせます。
 グライダーの傍らに、小さな鳥が姿を現しました。
(おはよう。いい朝ですね)
 寝ぼけたような、か細い声です。
 その鳥は、岩場の巣で暮らすカモメの雛でした。
 雛は灰色の産毛に覆われた体を左右に揺らしながら、ひょこひょことグライダーに歩み寄ります。
(昨日ここに飛んでいらした方ですね)
 小さな雛は、灰色の羽根を精いっぱい拡げて、言いました。
(僕も早く大きくなって、空を飛んでみたいなあ。母さんみたいに、あなたみたいに)
 雛は、つたない足どりでグライダーの周りを歩きました。
 まだ目が開いて間もない雛には、全てのものが珍しかったのです。
(白くて、きらきら輝いていて、素敵な翼だなあ)
(あなたが飛ぶところを、見てみたいなあ)
 いくら話しかけても、グライダーはただ風にもてあそばれ、機体を震わせるだけです。 
(ねえ、白い翼さん)
 いくつか月日が流れたある朝です。
(ねえ、見て下さい、僕の羽根を。僕、もう飛ぶことが出来るんです)
 雛の産毛は真っ白な羽根に生え変わり、すっかり成長していました。
 その姿は若々しく、希望に溢れて見えました。
 大人になったカモメは気付いていました。
 グライダーが、自分の力では飛び立てないことを。
 以前はとても美しく見えたバルサの翼も、今ではところどころ、ペンキがはげてしまっています。
 そんな姿になるまでグライダーは、飛び立つどころか寝返りすらうたないのです。

 不思議に思うのも無理ありません。
 しかしカモメは、グライダーのことが大好きでした。
 暑い夏の盛りも、激しい嵐の夜にも海に向かい、静かに横たわる白い翼。
 その姿を眺めていると、何故か心が安まるのです。
 白い翼はうす汚れた灰色になって、すっかりくたびれていましたが、そんなことは気にしません。
 カモメは年老いた仲間をいたわるように、(白い翼)に接していたのでした。
(いい朝ですね、白い翼さん)
 カモメは、いつもそうしているように、グライダーの側に身を寄せます。
(ねえ、白い翼さん)
 カモメは、思い切って言いました。
 いままで、ずっとそうしたいと思っていたことを。
(僕と一緒に、空を飛びませんか)
 グライダーは何も応えず、翼を風に揺らします。
(僕はもう、立派に飛ぶことが出来ます。あなたを連れて、空を散歩したいんです)

 その言葉にグライダーの機体が、りん、と引き締まるように見えました。

 カモメは爪のついた足でグライダーの両翼をはさみ、ふわりと舞い上がりました。

 海の向こうから吹く風に煽られそうになりながら、懸命にはばたきます。
 太陽の光を受けてざわざわと光る波が、視界の後ろに流れていきました。
 水色の空を、ちぎれた綿菓子のような雲がゆっくり流れていきます。
 カモメは雛の頃からの望みだった空の散歩を楽しんでいました。
 鳥の仲間とすれ違うときは陽気に翼を振って挨拶をします。
 飛び魚の群を見つけたときは水面までぎりぎりに近づき、競走をして見せました。

(空は面白いですよ、白い翼さん)
 グライダーは上空の冷たい風にただ、湿った機体をきしませます。
 カモメはなるべく色々な場所を色々な角度から、グライダーに見せてあげたいと思いました。
 白くて大きな羽根にぐっと力を込め、急上昇をします。
 穏やかだった海の上を、にわかに強い風が吹きました。
 自分の体だけでなく、グライダーの翼にまで風を受け、カモメは態勢を崩します。

 グライダーの機体が、カモメの足からふっと離れました。
 翼を拡げることに集中するあまり、つい足の力を抜いてしまったのです。
(白い翼さん……)
 問いかけも空しく、グライダーの機体は海面に向かってゆらゆらと落ちていきました。
 カモメは必死で追いかけますが、向かい風に煽られて思う方向に飛んでいけません。
 やがて、グライダーは波の合間にゆらりと降り立ちました。
 再び風が吹いて波が高まると、その機体はあっという間に呑み込まれてしまいます。
 カモメは、グライダーの消えた海の上を、くるくると旋回するばかりでした。
(さようなら、白い翼さん。あなたのこと、大好きでした)
 グライダーには、きっと飛んでいかなくてはならない場所があるのだ。
 お別れは辛かったのですが、カモメはそう思うことにしました。
 それはきっと、岩場の上で眠るように過ごすより、大事なことなのだと。
 カモメは再び、上空を目指して大きく羽ばたきました。
 白い翼に恥じぬよう、自分の飛んでいくべき場所を目指して。
 
 鏡のように凪いだ海原に、一艘の小舟が浮かんでいます。
 よく日に焼けた青年が一人、舟の上で釣り糸を垂れていました。
 夏の太陽は空の真上にさしかかり、青年の背中をじりじりと照らしました。
 遠くの方から、ううううむ、という金属の唸る音が聞こえます。
 青年は額の汗をぬぐいながら、音のやってくる方角を見上げました。
 雲ひとつない空の上を、大きなジェット機が横切っていきます。
 青年の目はしばらくその動きを追っていました。
 しかし銀色の機体が太陽の光に重なったところで、青年はうつむきます。
 彼の心に、かつて見た夢がよみがえりました。
 空に憧れ、パイロットになろうと思っていた少年の頃の夢を。
 
 青年は海辺の街から遠く離れた学校に通っていました。
 そして大きくなるにつれ、空を飛ぶのは模型飛行機を作るよりもずっと難しいことだと、思い知っていました。
 かといって、他にしたいことも見つかりません。
 彼はただ何となく、大人になろうとしていました。
「あの飛行機、どこへ行ったのかな」
 青年は、誰に問いかけるでもなく、つぶやきました。
 先ほどのジェット機は、空の彼方で小さくなっています。
 強い日差しを受けた機体が、銀色に輝いて見えました。
 
 釣竿が水面に向かってぐぐっとしなります。
 青年は何かに打たれたように、体を起こしました。
「大きいぞ」
 釣竿をしっかりと握り、獲物を引き上げようとします。
 水面から姿を現したそれを見て、青年はあっと声を上げました。
 それは、魚ではありませんでした。
 海水を含んですっかりふやけた、模型飛行機だったのです。
「何だ、これは」
 青年は思わず言ってしまったあと、その飛行機をまじまじと見つめます。
 機体や翼の形に、見覚えがありました。
 自分が幼い頃に作った、グライダーに間違いありません。
「今頃戻ってくるなんて……」 
 白いペンキはすっかりはげ落ち、バルサの機体はところどころ腐っています。
 しかしそれは、少年がかつて夢を託した飛行機に他ならなかったのです。
 青年は、その崩れてふやけた木屑のかたまりを、手のひらに乗せてみました。
 海水をたっぷり含んだそれは、太陽の光を浴びるとみるみる乾いていきます。
 初めて空を飛んだ日の姿を、取り戻そうとしている。
 青年にはそう見えました。
「お前も飛びたいのか、もう一度」
 青年は腕をふりかぶり、グライダーを空に放つ動きをしてみました。
 実際には機体を手放すことはありませんでしたが、グライダーは青年の心の中で、空高く舞い上がりました。
 少年の頃に見た夢と同じように空高く、どこまでも遠く。風を切って、弧を描いて。
「きっと飛べると信じていたんだ。今からだって遅くないさ」
 青年はグライダーを釣り具箱の上にそうっと置きました。
 そしてオールを握ると、岸に向かって力強く漕ぎ始めました。

<了>
 



comment



夢はきっと叶う。そんな気持ちを白いグライダーに託してみました。世の中は争いに
満ちて、上手くいかないことだらけですが、夢を持って前に進むことが全てだと思います。


Story & comment by かえる

kaeru920@hotmail.com



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