おくびょうな竜
作/かえる
とある山奥に、一匹の竜が住んでいました。
固いうろこに覆われた体は山で一番の大木よりも太く長く、真っ赤にさけた口からは鋭い牙を生やしています。その金色に輝く瞳ににらまれたら、どんな生き物でも震え上がってしまうことでしょう。
それなのに竜は、誰も足を踏み入れることのない谷底に、ひとりぼっちで横たわっていました。ひゅう、ひゅるるる。ひゅう。
谷に吹き抜ける風が、木立を揺らします。
木の葉がこすれ合う音が山に響くと、竜は身を固くします。
「こわい、こわいよ」
いかつい指先に力を込めると、かぎ爪の食い込んだ岩が粉々に砕けました。その音が地鳴りとなると、竜もそれに合わせるかのように震えます。竜は、その恐ろしい姿とはうらはらに、たいへんなおくびょう者でした。それなので、自分がどんなに強くて大きいかも知らないままに、山奥に身を潜めていたのです。
少しでも山の動物が近づく気配がすると、竜は雨雲や霞を呼び寄せて、その中に隠れてしまいます。
たまに小りすや雀がそばを通り過ぎることもありましたが、動物たちがおびえる姿を見て、竜はもっとおびえてしまうのでした。竜は不思議に思っていました。
小りすたちは、なぜ自分を見て恐がるのだろう。あの前歯でかじられたら、僕のうろこなんてひとたまりもないのに。
雀は、なぜあんなにあわてて飛び去るのだろう。あのくちばしでつつかれたら、僕はきっと穴だらけにされてしまう。
それを考えただけで、金色の瞳は涙でいっぱいになります。竜はもう何百年もの間、おびえて暮らしていました。それでは友達どころか、話し相手すらできっこありません。ときどき寂しく思うこともありましたが、竜にはこの谷から飛び出す勇気がありません。
「恐ろしい生き物にいじめられるくらいなら、こうしておとなしくしていたほうがましだもの」
竜は、そう自分に言い聞かせていました。冬がやってきました。
竜の横たわる岩場には真っ白な雪が積もります。谷に吹く風は刺すように冷たく、厳しい季節です。
ところが、竜は冬が大好きでした。
山の動物たちがみな、眠ってしまうからです。
雪に覆われた山は、しんと静まりかえっています。
少し寒いのを我慢すれば、おだやかな気分で眠ることができました。その日も雪が降っていました。
竜は降り積もる雪に覆われて、じっと息をひそめていました。
このまま雪に埋もれてしまうまで動かずにいよう。
そう思っていたのです。
「これなら、誰にも見つからずにすむぞ」
安心して、目を閉じようとしたそのときです。
谷の向こうに、小さな生き物らしき影が見えました。影は竜の横たわる岩場にどんどん近づいてきます。
竜は今にも逃げ出したいという思いに駆られますが、足がすくんで飛び立つことも出来ません。
やがて影の輪郭がはっきりと、竜の瞳に映ります。
「この山では見たことのない生き物だ」
一歩、また一歩と雪深い谷を進んでくるのは、小さな女の子でした。女の子は、ついに竜の鼻先にまでたどり着きました。
そして、小さな声でつぶやきます。
「あたたかい……」
女の子は竜の鼻から漏れる吐息で、かじかむ指を暖めます。
竜はいよいよ身動きがとれなくなりました。
しかし、なぜか恐ろしいという気持ちは消えています。
他の生き物とこんなに近づくのは初めてでした。女の子はいつの間にか、竜の鼻先にもたれて眠ってしまいました。
竜は女の子を起こさないように、静かに呼吸します。
そして、考えていました。
「この生き物は、いったい何という名なのだろうか」
小りすのような前歯もなければ、雀のようなくちばしもない。山の動物に襲われた
ら、どうするんだろう。
女の子の小さな体から、かすかな温もりが伝わってきました。夜になり、次の朝が来るまで、竜はずっと起きていました。
もしあくびやくしゃみをしてしまったら、女の子を吹き飛ばしてしまうからです。女の子は竜のひげを枕にして、すやすやと眠っていました。
太陽が高くなり、暖かい日差しが谷に降りてくるころ、竜は勇気をふりしぼって、女の子に話しかけます。
「ねえきみ、朝だよ。そろそろ目を覚まさないか」女の子は竜の声を聞いて、飛び起きました。
「誰なの。そこにいるのは」
竜は、なるべく女の子を脅かさないように、小さな声で話します。
「ぼくは、竜だよ」
女の子はその声がする方へ手探りをしながら、顔を左右に動かします。
しかし、その瞳には光が宿っていませんでした。
女の子は、目が見えなかったのです。竜は女の子の様子に気がつくと金の瞳を光らせ、ふうっと息を吐き出します。
「あっ、この風だわ。すごく暖かくて、気持ちがよくて……それで私、眠ってしまったのね」
女の子は竜の鼻先をそっとなでます。
「あなたのおかげで、よく眠れたわ。ありがとう」
女の子に触れられると、竜の心には不思議な温もりが芽生えました。「きみは、山に住んでいるの?この辺じゃ見かけない顔だけど」
「ううん。私は、この山のずっと下の村からきたの」
「こんなところに、何をしにきたんだい。それとも、道に迷ったのかな」
女の子の顔が、悲しそうに曇ります。
「私の村で、ひどい戦争があったの」
竜には、戦争という言葉の意味が分かりませんでした。でも、それが女の子を悲しませているということに、胸を痛めます。何か、彼女のためになることは出来ないだろうか。
そう考えた竜は、あることを思い出しました。
「そうだ、いいものがある」
竜は、大きな水晶玉を持っていました。
その玉には、この世界のあらゆる出来事を映し出せます。
女の子の村で何があったのか。
それを知れば、いい考えが浮かぶと思ったのです。竜は、水晶玉に映った光景に、言葉を失いました。
それは、この世界ではないどこかにあると聞いた、地獄そのものでした。
血を流し、殺し合い、奪い合う人々。
炎の中を逃げまどい、泣き叫ぶ人々。
その中には、女の子の姿もありました。
女の子の眼の前で、火の玉が弾けます。
それ以来、二つの瞳は見開かれることはありませんでした。「なんということだ。なんという……」
竜には、どう女の子をなぐさめたものか、見当もつきません。
その代わり、竜の心には今まで感じたことのない気持ちが沸き起こっていました。全身のうろこが逆立ち、血が煮えたぎるように思えました。
森の小動物におびえて暮らしていたときには、こんな風になったことはありませ
ん。
女の子と出会ったとき、体が暖かくなったのとも違います。
竜の心に訪れたのは、「怒り」という感情でした。竜は、争いに明け暮れるこの愚かな生き物が、いっぺんに嫌いになりました。
でも、なぜでしょう。
目の前に居る女の子だけは、愛しく思えます。
竜はその気持ちを、うまく言葉には出来ません。
「なにか、欲しいものはある? おなかがすいたのなら、食べものを探してくるよ」そう語りかけるのが精いっぱいでした。
「おなかはあまりすいてないわ。でも……お願いがあるの」
「でも、なに?」
女の子は、竜の鼻にそっと触れます。
「どうしても、会いたい人がいるの」
竜は、少し不安になりました。
でも、女の子の願いを聞き入れないわけにはいきません。仕方なく、女の子の言葉に耳をかたむけます。「私には、たったひとりの兄さんがいるの。兄さんは兵隊にとられて、私の村を守るために戦っているわ」
どうやら、竜が恐れていた通りになりそうです。
「お兄さんに、会いたいんだね」
竜は、嫌な気持ちを悟られぬよう、ゆっくり問いかけます。
女の子が、こくんとうなづきました。
その姿の切なさに、竜の胸はしめつけられました。戦争で両親を失い、そのうえ目まで失った女の子の、最後に残されたささやかな願いです。
これ以上女の子を悲しませないために、かなえてあげなくては。
竜はそう考えました。
しかし、それには争いだらけの世界に降りていかなくてはなりません。
しかも、もし兄さんが見つかれば、女の子は竜のもとを離れていくかもしれないではありませんか。竜の心は乱れました。
家族のことは忘れて、ここで僕と暮らさないか。
そんな言葉が喉元まで上がってきましたが、ぐっと飲み込みます。
「兄さんに会いたい。もしそれがだめなら、私が無事だってことだけでも、伝えて欲しいの」
女の子の、閉じたままのまぶたから、うっすらと涙がにじみます。
それを見て、竜は覚悟を決めます。「ぼくにまかせておいて」
竜は、灰色のかみなり雲を引き連れて、空へ舞い上がっていきました。
女の子は突然巻き起こった強い風におののきながらも、空の方を向きました。
「ありがとう……」
その姿こそ見えませんでしたが女の子には、竜がたいへん頼もしく思えました。竜はかみなり雲の中に身を潜めて、人間の住む世界を見下ろします。
そこは、一面の焼け野原でした。
黒こげになった建物や、無数に折り重なったなきがらの他には、何も見えません。「ひどい……」
その光景は水晶玉の中に映った戦いの場面よりも生々しく、竜を悲しませました。竜が体を震わせるとかみなり雲が光を放ち、荒れ果てた大地に激しい雨を降らせます。
そのとき、水晶玉の中に、傷ついた若い兵士の姿が映りました。
兵士は、草むらの中に掘った穴の中、ひとりぼっちで雨に打たれていました。
「あれが兄さんに違いない」
竜は体を震わせるのを止めて、かみなり雲を鎮めます。
そして、ゆっくりと兵士の居る草むらへ降りていきました。
そこは激しい戦いがあった後らしく、辺りには火薬と血の匂いが草いきれと共にたちこめていました。「ねえ、きみ」
兵士の居る穴から少し離れたところから、竜はささやきかけました。
なるべく驚かさないつもりでしたが、その声は大地に低く響きわたります。
「誰だ、そこにいるのは」
兵士の声はすっかりおびえています。
「戦うのをやめて、ぼくと来て欲しいんだ。会わせたい人がいるから」
竜が優しく語りかけてもまだ、兵士は姿を現しません。兵士は思っていました。
これは、敵の仕掛けたわなに違いないと。
なるべく興奮しないように心がけながら、答えます。
「会わせたい人って、誰なんだ」
「きみの妹だよ。今、ぼくがかくまっているんだ」
(なんてことだ。妹を人質にとられてしまった)
そう思った兵士は、銃を握って穴の外に飛び出します。荒れ果てた大地に銃声が二発、とどろきました。
兵士の放った弾が、竜のふたつの眼を打ち抜いたのです。
竜は激しい痛みにのたうちまわります。
かぎ爪が草むらをかきむしり、しっぽが地面を打つと、まるで地震のように大地が揺れました。
兵士は、自分が何をしたのか分からぬまま、苦しみ悶える竜の姿をぼんやりと眺めていました。竜は空へ飛び立ち、かみなり雲の中に隠れます。
その鳴き声は雷鳴となってとどろき、赤い涙は激しい雨となって大地を打ちます。「俺は、まぼろしを見ているのか」
若い兵士がつぶやきます。
「あの竜は、妹をかくまっていると言っていたが」
問いかけようにも、竜の姿はもう消えてしまっています。
兵士は赤い雨を降らせる空を見上げるばかりでした。そのときです。
「あそこに誰かいるぞ」
という声と共に、草むらから幾人かの兵隊が姿を現します。
彼らは、呆然とたたずむ若い兵士に、銃口を向けます。
「撃て、撃て」
雷鳴と共に、数発の銃声が響きます。
若い兵士は音もなく、草むらの中に倒れました。かみなり雲に乗って空を漂いながら、竜は悲しみました。
女の子の願いをかなえられなかったこと。
若い兵士を救えなかったこと。
荒れ果てた世界にあってなお、殺しあう人間が居ること。
竜の涙が、硝煙のたちこめる大地に降り注ぎます。
両眼を打ち抜いた痛みは、いつしか消えていました。
ただ心の痛みが、竜を苦しめていました。竜は女の子の待つ谷へ、ゆっくりと降りていきます。
女の子を踏みつぶしてしまわないように、ゆっくりと、手探りをしながら。
「ねえ、どこにいるんだい。返事をして」
竜が語りかけると、大きな岩の影から女の子が姿を現します。
女の子は竜の吐息を頼りに歩み寄ります。
そして、ようやく竜の鼻に触れることが出来ました。女の子の手のひらの温もりは、何よりも竜をほっとさせました。
しかし、辛い知らせを伝えなくてはなりません。
竜は意を決し、大きく深呼吸をします。
「ごめん。きみの願いを、かなえてあげられなかった」
竜は震える声で、下の世界の出来事を聞かせました。
「ぼくには、何も出来なかった。ごめん、ごめんよ……」
傷ついた目から、再び赤い涙が溢れます。女の子の手が一瞬、竜の顔から離れます。
竜は思いました。
女の子に、嫌われてしまったと。
約束を守れなかったふがいなさを、きっとなじられるのだと。
ところが、次に聞こえてきたのは、思いもよらぬ一言でした。
「……ありがとう」
その小さな声は、優しさに満ちていました。女の子の手が、再び竜の顔に触れます。
「あなた、けがをしているじゃない」
女の子の指先に、竜の涙が伝います。
「こんなに傷ついて、恐い思いをしたのね」
閉じられたまぶたに感じた温もりは、波立った竜の心をたちまちに癒します。
竜のほおを、今までと違った温度の涙が流れ落ちました。「さあ、行こう」
竜は女の子を背中に乗せて、飛び立ちました。
行き先が決まっていたわけではありません。
だけどここより暖かい場所は、きっとある。
命あるものたちが決して争わず、安らかに暮らせる世界が、きっとある。
そう信じるしか、ありませんでした。星のない鉛色の空の上、竜のうろこが天の川のようにきらきらと輝いて見えました。
しかし、地上の誰一人として、その美しさに目を止めるものはありません。
女の子は竜の背中にしがみついて、眠っています。
その微かな寝息と体温は、竜の心にかけがえのないものを与えてくれました。
もう、恐れるものは何もありません。
竜と女の子は希望の地を目指して、空の彼方へと消えていきました。
<了>
comment
世界は争いと悲しみに満ちています。
しかし、愛する者との出会いが、闇の中に一条の光をもたらしてくれるのです。
Story & comment by かえる