眠る愛

                    作/キリン




ちょっと気分転換に、散歩に出るつもりだった。どうしても、依頼されたテーマの詩
が書けず、困っていたところに、自室の窓から入った海の夜風が、女を誘ったのだ。
なんとなく、海岸を目指して歩いて、気が付くと、崖近くに立っていた。
夜の海は暗黒。長年、ここに住んでいるから、内地の人が感じる夜の海への畏怖は、
女には薄い。この崖にも、今まで幾度となく足を運んでいる。
なんだか、とても落ち着く。もともと海が嫌いな方じゃない。
疲れてるのかな・・・。
あっと言う間のことだった。
崖の向こう側に、重心が移動してしまった。もう後戻りできないことを、あっけなく
確信してしまった。
女は目を見開いた。驚きが胸に跳ねる。しかし、さほど取り乱さない自分を、意外に
感じた。
何の気もなく、ふぅわりと、しかし確かに意識して、飛び降りてしまったのだ、明確
な理由もなく。
もしかして、人が何かする時って、大概がこんな風になんとなく・・・。
着水。


・・・起きているような、寝ているような・・・。ぼんやりとした感覚。
それでも、女は、自分に意識があることを感じていた。
暗い。とても暗くて冷たい場所に、自分がいる。そんな場所にいることに、あまり疑
問はわかなかった。どうでもよいことのように思えた。ただ、沈んでゆく・・・。ど
ちらが上だか下だかもわからないが、なんとなく、自分が下の方にゆっくりと下りて
いっている気がする。
うつらうつらと眠りに着くような、穏やかな気持ち。何か、心のどこかが解放される
ような。満たされるのではなく、自分が周囲に満ちてゆくような。
時間の感覚ももはやわからない。
うっすらと溶けて、崩れてゆく自分を、感じていた。


声のようなものが聞こえてきたのは、いつからだったのか。暗い空間に、優しく響く
低い鐘の音のような、声、というか、誰かの意識が、女に届き始めた。
「・・・ン キ カ ネ・・・」
女には、声の意味がわからなかった。また、もしわかったとしても、本来の人間らし
い反応をするには、女は弱り過ぎていた。
「・・・元気かね・・・」
今度は、声の意思が明確に伝わってきた。この声の主は、ずいぶん前から、自分にそ
う問い掛けていたように感じる。
女は、微笑もうとした。声などもう出ないことが、自分でもわかっていた。
「・・・そうか・・・元気か・・・」
優しい声。父のような、母のような。
暗い空間を漂う女、周囲には低くゆるやかな鐘の音。それしかない、場所だった。
鐘の音は、女の微かな鼓動を支えるように同調した。女は安らぎを感じ、自分をその
鐘の音に委ねた。しばらく、それは続いた。
「・・・よかろう・・・では私の闇に戻りなさい・・・」
すると、鐘が鳴るたびに、女の存在が薄れてきて、そのうち女は消えた。鐘の音は、
その音の発生源である、暗い場所の底の方に、戻っていった。


・・・闇の底で、女と、声の主との生活が始まった。
・・・そこはまるで、夢の中のように、曖昧で自由な場所だった。


元気になったようだね
よかった
さて
いかがかな
そこには全てがあろう
眠るもよし 歩くもよし 食べるもよし 泣くもよし 笑うもよし
さみしい、と
よかろう ではきみの手で、誰かを連れて来なさい

その子の想い人よ
深淵であり、最初の心、私の闇へようこそ
全てをゆるりと押し包む、心の夜である
迷惑だ、と
であろうなぁ

うれしい、と
うれしくない、と
なぜ、と
出たい、と
どこへ、と
帰りたい、と
「あそこへ」
「なら、私も帰りたい」
「帰りたい」
どこへ帰るというのかな
よかろう
では、きみの闇に私が入ろう

いかがかね
笑顔、と
それはよかった
無数の心を取り込む私の闇
永遠の心の夜、数多の心とともに
君の望む夢とともに
全ての夢の形とともに
永遠に、心の闇にあるが良い
大丈夫 きみは決して一人でハ ナ イ
マ タ ア オ ウ・・・


・・・女と男は、声の主から離れていった。
・・・暗い闇の底から、母体を離れる胎児のように。


波の音で目が覚めた。
右頬に、濡れた砂を貼り付かせたまま、重い頭を引き起こす。朝、陽光がきつい。目
の焦点を合わせるのに、しばらく時間がかかった。思考のピントも。
やっと、辺りを見回す。人気もまばらな朝方の砂浜、波打ち際に、女はうつ伏せで倒
れていた。足首から膝まで、波が寄せている。
よろよろと立ち上がる。気分が悪かった。左足は、裸足だった。右足はサンダルを履
いたまま。桃色のワンピースをはじめ、全身がずぶ濡れ。ふと背後の海を見て、自分
がそこから上がってきたのだと直感で理解する。海を背にして左手に、切り立った崖
がある。あそこから、自分が身投げしてしまったのを思い出す。右手には、ずっと遠
くまで砂浜が続いている。
と、女は、やや離れた波打ち際に、動くものを見た。すぐにそれが何か気付き、ふら
つく足取りで波に沿って歩く。やっと上体を起こした男の傍らに女はやってきて、ペ
タリと腰を落とした。言葉短く話し、やがて二人は立ち上がり、危なげな足取りで、
肩を並べて歩き出した。海に背を向けて。
二人の耳には聞こえない。しかし魂が知っている。
大いなる、暗い愛情を。その声を。自分達の心臓の鼓動と同じ、鐘の音を。
・・・元気かね・・・
・・・それはよかった・・・


そして、女は依頼されていた詩を仕上げた。その名は・・・。



幾つもの、小さき炎
ひとつ、ふたつ、揺らいで燃ゆる
寄り集まりて焚き火とならば
舞い上がり、散り、星々となる

穏やかな水面 美しく波立ち
怒涛となりて しかし底は冷たく
流れの中
悲しみを抱いて
そう、果てしなく
悲しみを抱き

緑と風は色鮮やかに
我々の胸を透かして
いずこかの人の胸を透かして

止むことなく 繰り返す波間は
多くの人の泡を 浜辺に残し
海へ帰し
明日、天高く 遥かな空を目指す
悲しみとともに
そう、悲しみとともに
そして
一片の
優しさを乗せて

<完>






comment


海にも大地にも石ころにも、僕等のとは、ちょっと質の違う意思があるのでしょう。
幸いにして、僕等はそれを感じ取り、多少なりとも理解することができます。


<tt-kirin@nyc.odn.ne.jp>



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