小説

月下小景

作・ゆとり



 無数の柔らかな棘から空を守るように
 雪は松の木を覆っている
 ほら 男を乗せた馬が走り抜けて行く
 男が気紛れに放った矢は 季節の流れを走って 
 桜の幹に深く突き刺さる
 震えた桜は 夥しい数の花弁を舞わせる
 風に乗った花弁がひとひら河に届く頃には
 舟はもう岸から遠く離れている
 船頭は決して振り返らないし
 いくら呼んでも声が届くはずもない
 鳥の群れが 龍を追いかけて懸命に飛んでいる
 やがて力尽きて 鳥たちは影のように 
 ひっそりと塔の周りを旋回する
 白い龍は 桜の森に混ざり込んで眠りにつく
 満月がやって来て 桜は黒く輝きだす
 金の花火が散る夜は 決して素顔を見せてはいけないよ
 だからみな能面を被っている 心を悟られないように
 さもなければ 鷺に連れ去られてしまうから





灯りの落ちた大きな提灯の下をくぐると、その声が甦って来る。夜が深ければ深いほど、声は鮮明に心をさらう。夢のような景色の中にいたはずなのに、汗も雨上がりの匂いも、私を強く現実に結び付けていた。ふくよかな手が夜の空気を切っていく。彼女の指の動きは、優雅な波のようだった。
 今、目の前にある景色よりも、記憶の中、背の曲線を覆っていた絣の模様を、私は近くに感じる。緩く握られていた手は湿気を帯びて熱かったけれど、離してしまう気にはなれなかった。  
 おばあちゃん。
 そう呼ぶと、彼女はゆっくり振り返って、驚くほど澄んだ目で私を見た。私の心はしばし硬直する。そして確かに感じるのだ。彼女と私は血が繋がっていないこと。


 新しい父親は穏やかな人だった。彼は信州の小さな町の生まれで、東京に出張した時に母と出逢った。父は母と共に東京の下町に家を買い、故郷に独り残っていた祖母を呼び寄せた。
 祖母が上京する日、私は父と一緒に上野へ彼女を迎えに行った。父と二人きりで出掛けるのは初めてのことだった。私は少し動揺して、平らな道で何度も躓いた。その度に父は私の手を優しく握り直して、静かに微笑んだ。祖母の到着を待つ間、並んでホームのベンチに座り、水飴を嘗めた。歯に絡みつく甘い粘り。父は私の為に桃色を選んでいた。本当は青や緑の方が好きだったけれど、父の安易な思い込みや率直な優しさは、いつも私を安心させた。
 新幹線が滑り込み、ホームがにわかに明るくなった。祖母は肩に小さな鞄を一つだけ掛けて、私たちの方へ迷うことなく歩いて来た。

 父は土産によく林檎を買ってきた。それは家族みんなが好きな果物で、器用な父は美しく林檎を剥いて、私たちに手渡した。一緒に暮らし始めた頃は、そうして向かい合うのが恥ずかしくて、机の下、台所の冷たい床を足先でなぞって気を逸らしていた。
 居間のかごの中、体が弱い母の枕元、祖母の部屋の仏壇。家の景色の隅にはいつも林檎があった。まるで慣れない私たち家族を結ぶ糸のように。だから、林檎を食べると私は今でもあの頃のぎこちない気持ちを想い出す。

 夜中に目を覚ましたきり眠れなくなる私を、祖母はよく散歩に連れ出した。
 蒲団の中で途方に暮れていると、襖が音もなく開く。かすかな白檀の匂い。昔からの約束みたいに、祖母はそこに立っていた。爪の欠けた足先が白く照らされている。月光は乾いた皮膚をすべらかにならしていた。私はそっと起き上がり、手首のゴムをたぐって、長い髪をひとつに束ねた。
 祖母は気の利いた問い掛けが出来なかったし、私は学校のことや自分の気持ちを上手に話せるような子供ではなかった。だから散歩の最中、祖母は私に物語を聴かせた。有名な昔話もあれば祖母が創った話もあった。人見知りの激しい私たちにとって、少し閉じた空想の世界はとても居心地が良かったのだ。
 散歩は必ず月のある夜と決まっていた。緩やかに形を変えていく月に見守られながら、私たちは夜を歩いた。

 朱色の柱とプラスチックの柳。転がった五円玉は鈍く光る。蛍光灯に照らされた夜の仲見世通りは、安っぽい舞台装置のようにも見えた。
 ふたりで歩いていた時も、こうして独りで歩いている今も、散歩の道順は変わらない。仲見世を通って浅草寺に行く。祖母は夜の仲見世を何よりも好いていた。昼間には多くの人々で賑わうこの通りの店のシャッターには、ひとつひとつ、色鮮やかな絵が描かれている。祖母は私の手を引き、もう片方の手で絵を指差しながら、物語を創って聴かせた。往きは右側のシャッターを順番に辿る。物語の始まるシャッター、松が並ぶ雪景色の前で、祖母はいつも小さく咳払いをした。

 境内に入ると、いくつかの人影があった。私は賽銭箱に小銭を投げて、扉の向こうの観音様に手を合わせてから、本堂に続く長い階段の端に腰を下ろした。目の前には灰色のそっけない公衆電話が並び、暗闇の奥に巨大なわらじの飾りが見える。お御籤の入った木棚は黒い格子で塞がれている。
 夜が更けても、寺を訪れる人は絶えない。犬の散歩をする人、自転車をこぐ人、飲み屋帰りの会社員、穏やかな野良猫たち。ささやかな日常が人の心に残り、土地の感触を作っていく。路地裏の酔っ払いのいいかげんな替え歌に潜むこの街の情緒が、祖母も私も好きだった。
 私はそのまま、行き交う人々を眺めていた。幾度も歩いた夜の場面を、通り過ぎて行く人の足音や、立ち止まり話している人たちの仕草に映す。それは実際、記憶というものの印象に近かった。感情に押しつぶされそうになると、留めたい姿は遠く霞んでしまう。
 無意識に握り締めていた小銭は、すっかり温かくなっていた。

 私は緊張すると、ポケットの中のものを握り締める癖があった。祖母はそれを見抜いて、河原から形のいい石を拾って来ては、私のポケットに忍ばせた。石はいつもちょうど手の中にすっぽりと隠れるくらいの大きさだった。
 念が篭り過ぎると良くないと祖母は言い、しばらく経つとふたりで川に石を返しに行った。私は繰り返される退屈な儀式を億劫に思って、ただ力を込めて遠くに石を投げた。
 だから背が伸びることや言葉を覚えていくことよりも、ポケットの石が大きくなっていくことに、私は成長というものを感じていた。


 しばらくすると、仲見世の奥から初老の女性がやって来るのが見えた。
 突然、彼女が勢いよく走り出した。私は驚いて、思わず腰をあげた。彼女は境内に辿り着くと肩で大きく息をした。
 立ち上がって駆け寄ろうとする私を手で制して、彼女はゆっくり歩いて来た。

「だいじょうぶですか?」私は彼女の顔を覗き込んだ。

「平気だよ。驚かせたね。願掛けなんだ」少ししゃがれた、でも小気味いい声で彼女は答えた。

「願掛け、ですか?」

「そう。仲見世を息しないで歩いて、観音様にお参りしたら、願いが叶うことにしてるんだよ」白髪まじりの短い髪に指を通しながら、彼女は言った。

「はあ」私は半分呆れて彼女を見た。

「あんたそういうのしない?」
 
 私はしばらく考えてから、祖母の話を思い出した。
「ええと、新月参りって知ってますか?」

「なんだいそれ」彼女は眉をしかめた。気の強そうな形のいい眉だ。

「新月の夜に、お参りするんです。できれば誰にも見られずに。新月には特別な力があるって、祖母がよく言ってました」

「効くのかい?」彼女は私に顔を近づけた。深く刻まれた皺が、雄々しく過ごして来たであろう日々を表していた。

「まだやってみたことはないです」気迫に押されて、私は思わず本当のことを言ってしまった。

「なんだ、頼りない。でもまぁ、息を止めるよりは楽そうだね。よし、今度からそれにするか」
 彼女は上を向いた。私もつられて空を見ると、煌々と輝く満月が浮かんでいた。

「ふん。今日は普通でいいか」
 彼女はそう言って階段を昇ると、勢いよく賽銭を投げ、手を合わせた。動作のひとつひとつに威勢のいい気性が響いていて、私は可笑しくなった。

「あんたもお参りに来たのかい?」彼女は戻って来て私の隣に座るとそう訊いた。

「はい。散歩のついでですけど」

「すいぶん夜遅い散歩だね」

「ええ、まぁ」説明をするのが面倒だなと思い、私は言葉を濁した。しかし、彼女はそれ以上何も訊かなかった。

「そうだ、ちょっと手をだしな」彼女は手提げ袋から何かを取り出して、私のてのひらに置いた。それは瓢箪の形をした黄色のお守りだった。口のところに紫の紐と小判型の飾りが結んである。

「お守りだよ。神様が入ってるんだ」  

「賑やかな神様ですね」私は耳元で瓢箪を揺らした。涼しい音がしゃらしゃらと夜に響く。

「七福神かなんかだろう」彼女は適当に答えた。

「いいんですか? 本当にいただいても」

「若いのに遠慮なんてするんじゃないよ。じゃあ、気を付けて帰りな」
 彼女は立ち上がると、さっさと歩いて行ってしまった。

「ありがとう」私は慌ててお守りを握ったこぶしをあげた。

「次の新月にお参りするから。あんた間違っても来るんじゃないよ。見られたら台無しだ」彼女は振り返って言うと、まっすぐに私を見て、凛々しく笑った。
 
 新月参りも、本当は祖母が創り出したものかもしれない。でも、それが逞しく生きる彼女の願掛けになるのが、なんだか嬉しかった。

 時折、あの頃の感触がそっと忍び寄って来る。緩やかに変化する月のかたち。なかなか辿り着けない眠りの淵。そんな時、私はこうして浅草を歩き、誰も知らない夜の片隅で、祖母のことを想う。

 帰り道は、往きと反対側のシャッターを眺めて帰る。
 祖母は絵を指差しながら、残りの話を付け加えた。雷門と仁王門を繋ぐ濃密な夜の匂い。たぶん、あの物語は彼女なりの、眠れない私への子守唄だったのだ。
  
 
鬼灯を見つけたら、松の枝にたくさん掛けておきなさい。
 雪はそれを目印に松のところまでやって来るから。
 さあ、もうおしまいだよ。
 蒲団にもぐったら、蓮の花の上で眠るところを思い浮かべてごらん。

 
家に帰ると、すぐに眠りは訪れた。襖が消えて、光が閉じる。
 蓮の上の私はいつしか池に落ちて、泥の中に沈んでいく。
 深く深く、沈んでいく。

 

 おばあちゃん。
 冷たい枕元で掛けた言葉は、ひどくありふれた響きで、光が停滞した半開きの瞳に吸い込まれていった。だけど、それはつたなく結んだ関係のすべてで、血の繋がりのない彼女への想いのすべてだった。
 葬式の夜、眠れなくて台所に行くと、父がぽつんと座っていた。小窓から差し込む淡い色が、夜を密やかに照らしていた。父の顔に表情は無かった。能面を被って素顔を隠しているように。
 父は私に気付くと、小さく微笑んで、林檎を食べないかと言った。私は頷いて、果物かごに手を伸ばした。父は食器棚からお皿と果物ナイフを取り出すと、私の向かいに座った。そして、青い柄のナイフを私に差し出し、赤い柄のナイフで丁寧に林檎を剥き始めた。
 父の剥いた林檎は相変わらず美しく、不器用な私の剥いた林檎はがたがたで、並べてみると違う食べ物のように見えた。甘酸っぱい香りの中、重たいまぶたで一緒に笑った。


 最後の石は、今もてのひらにしっくり馴染んでいる。心を込めて祖母が探し出して来た石を屈託無く放り投げていた頃。私は、過去の私を羨ましく思った。今更になって祖母の言うことが理解できた気がする。仕方がない。念を篭め過ぎてしまった石を、出せるだけの力を振り絞って、私は川に放り投げた。飛び立つ鳥の群れの羽音が耳を覆う。
 岸まで届くはずもない水しぶきから逃れるふりをして、私はすぐに歩き出した。葉桜の道で、ひとひら舞ってきた名残の花びらを追って見上げた空には、澄んだ青の中、白い月が浮かんでいた。
 いつもより少し軽い右半身に落ち着かなかったけれど、私は慣れてしまうだろう。
 すっかり広くなったポケットの中で、黄色い瓢箪は、神様の音を奏でている。


         

 (終)  




comment

太陽の下、月の下。ものごとの見え方も考え方も感じ方も、随分変わるような気がします。
 そんなことや、印象的だった浅草の夜の表情、人との繋がり。色々想いながら書きました。   


Story & comment by ゆとり




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