かかと屋

作・ゆとり


 


 広い草原の中、雲のない青空の下にひとりきりで立っている夢をみました。すると、遥か遠くの方から、何かオレンジ色のものが飛んでくるのです。よく見と、それは傘でした。傘はあちこちから何千何百と、くるくる飛んできて、いつのまにか青空を埋めつくしました。

気がつくと、あたりはすっかりオレンジ色の夕暮れでした。

 扉が開き、細長い光が私の足下までやってきました。いつの間にかうとうとしていたようです。ゆっくりと瞳を開けてみると、とても優しいすみれ色の服を着た少女が立っていました。彼女は左手に黒い大きな傘を大切そうに持っています。それは、いささか彼女には不釣合いなようにも見えました。           

(もしかしたら、あの傘を開くと夜になるのかもしれない) 

夢と現実がごちゃごちゃになったまま、私は彼女をぼんやりと眺めていました。

「かかとが欲しいのですが」

 彼女はすっかり変色してしまった、小さな紙切れを差し出して言いました。それは私自身忘れていた、この店を開いたときに配った、チラシのようなものでした。いったい何年前のことでしょう。

 −あなた以外の誰かの景色を眺めてみたい方、かかと屋へ。− 

 頭を悩ませて考えだした下手なコピーに、今更ながら照れくさくなってしまいます。

 私は不安そうな瞳の彼女に言いました。

「ようこそいらっしゃいました」

「失礼ですが、どのようにして私以外の人の景色を見るのでしょう?どこか遠くへ行かなければならないのですか」

 彼女の瞳は相変わらず不安げに揺れています。

「それはとても簡単で、同時にとても難しいことなのです。同じ場所を一緒に歩いたとしても、人それぞれ景色は違います。もちろん、ある種のシンクロは起こりうるでしょう。しかし、あなただけの心が存在するように、あなただけの景色も存在します。あなたが何かを見ているとき、何かを想っている時、何かに触れたとき、意識はかかとに流れるのです。水が高いところから低いところへ流れてゆくように。あなたの景色を忘れないよう、かかとから、地面にまで流れてゆく。かかとは、とても重要なものです。人と場所とをつなぐ意識の出入り口のようなものですから」

 彼女は、じっと私を見つめています。私は続けました。

「私には少し変わった力があります。他人のかかとによく似たものを創りだすことができます。あなたがそのかかとを靴に付けて歩けば、その人の残した、地面の下の意識が流れ込んでくるでしょう。そうすれば、その人の景色を眺めることができます。もちろん、あなたの助けが必要です。その人について、できるだけたくさんのことを私に聴かせてほしいのです。」


 そこまで話してしまうと、私は彼女に、暖炉の傍の椅子に座るよう言いました。もう3月とはいっても、この北の町には、まだ春は届きそうもありません。紅茶を2杯入れて、私は彼女の向かいに腰掛けました。暖かいゆげの向こうで、彼女はゆっくりと話し始めました。

「私は、兄のかかとが欲しいのです。兄は生まれてから死んでしまうまで、ずっとこの町で暮らしていました。だから、私は町を離れる前に、どうしても、兄の見ていたこの町の景色を憶えておきたいのです」

「お兄さんは、どんな人だったのですか?」

 紅茶のゆげですっかり曇ってしまった眼鏡を指でぬぐいながら、私は尋ねました。

「兄は、町外れのプラネタリウムで働いていました。星がとても好きだったのです。そして、私がまだうんと幼いころ、兄は私に魔法を教えてくれました」

「魔法ですか?」

 彼女はいたずらっぽく笑って言いました。

「願い事をかなえる魔法です。りゅうこつ座という星座をご存知ですか?」

「いいえ。すみません、そういうことに疎いもので」

「南半球の星座です。北の国からはほとんど見えないのですが、主星のカノープスという星だけは、南の地平線すれすれに見ることができるのです。いちばんよく見えるときでも、地平線に満月を4つ積んだぐらいの高さですから、見つけるのは少し難しいのですが」

「その星が、あなたの願い星なのですね」

 彼女は深く頷きました。

「カノープスは幸福の星と言われています。兄は、願い事があるときはカノープスにお願いするといい、と私に教えてくれました。そのときから、私はカノープスの見える冬が待ち遠しくなりました。すべての願いが叶うわけではないことや、自分ではどうしようもできないことがあると理解してからも、ずっと」


 部屋の中には、おかわりの紅茶を沸かす音が、ことこと響いています。不器用な、でも暖かいリズムで。

「カノープスは地球から100光年離れた場所にあります。だから、今私が見ているのは、100年前の光です。兄は死んでしまう前、よく言っていました。もしあの星が今消えてしまっても、あと100年間、光はここに届き続けるんだよ、と。存在が消えてしまっても、光はまだ見えるのです。それが、たとえ幻の光でも」

 私は黙って彼女の言葉に耳を傾けていました。

「私は自分のそばから人がいなくなることが怖くて仕方ありませんでした。それでも、動けなくなったとき、不思議と助けてくれたのは、離れていってしまった人たちでした。もちろん、そばにいてくれる人たちはとても大切に思います。この場所に、私を傷つける要素は何もありません。だから、ここを離れることにしました。最後に兄の景色が見たいのです。・・・・・私は兄が大好きでした」

 

 こうして出来上がったかかとは、星のかたちをしていました。私は自分の単純さにほとほと呆れてしまいましたが、それは、とても愛しいかたちでした。彼女が、幸せそうにほほえみました。


 幾日かが過ぎ、いつものように店先で居眠りをしていると、扉の開く音がしました。頭を上げると、大きな鞄をさげた彼女が立っていました。

 「こんにちは」

 彼女が言いました。風の暖かい午後でした。

 「今日、旅立つのですね」

 私は、ずれ落ちた眼鏡を直しながら尋ねました。

 「はい」

 「行く先は?」

 「はっきりとは決めていません。ただ、南のほうへ」

 「南ですか」 

 暖かそうですね、といいかけて口をつぐみました。彼女の想いが少しだけわかったような気がしたのです。

「あたらしい場所で楽しく暮らすことができたとしても、きっと時々寂しくなると思います。だから、南へ行くことにしました。カノープスが空高く見える場所へ」

 私が、かかとのことを尋ねると、彼女は言葉を探すように、しばらく黙って瞳を閉じていましたが、やがて私をしっかりと見つめて言いました。

 「星が・・・とてもきれいでした」

 

 彼女はお礼に、と言って、たくさんのオレンジと1本の傘をくれました。彼女が大切そうに持っていた黒い傘です。私はオレンジの皮をむきながら、いつか見た夢のことを想いました。

 「まるで夢のとおりだな」

 私はつぶやいて、黒い傘を開いてみました。傘にはところどころ小さな穴があいています。それが星座の並びだと気づいたのは、傘のふちぎりぎりのところに、大きめの穴を見つけたときでした。

 私は、その小さなプラネタリウムのカノープスに願いをかけました。

 どうか今夜は晴れますように。


 もう冬も終わりです。私は慌てて、埃をかぶって眠っている天体望遠鏡を探しに行きました。 


  
    
                                

                                    

    おわり




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 このお話は、散歩をしているとき、前を歩く人のかかとを眺めていて、
思いついたものです。かかとの高い靴を履くと、景色が違って見えるように、
かかとを取り替えて、違うものが見られたらいいな、と。
しかも、かかとは「消耗品」です。土やコンクリートに蓄積されているのかな、
といろいろ考えが止まらなくなってしまったのです。



Story & comment by ゆとり



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