<物語>


ゆれるからだ

作・ゆとり



 夕方の匂いがあたりに満ちて、みんなが落とす影の色が濃くなっていきます。
道行く人々の肩はこころなしかやわらかな稜線を描き、ブロック塀を歩く野良猫はくたびれた空気をふりはらうかのように尻尾を揺らしています。午後の通り雨でぬれた草のしずくがオレンジ色を宿していました。
 ひとりで歩いていると、すみっこのほうに目が行ってしまいます。うつむいて歩くのはよしなさいと叱られたものですが、このくせのおかげで親密になれた風景がたくさんある気もするのです。
 西日の眩しさが目に痛くて、ひとつ奥の道に入りました。立ち話をする人々の高い声が響いています。ベビーカーから手をのばして大根の葉っぱに触れている小さな手も、夕方の色に染まっていました。神社の境内で宿題をひろげている子供たちも見えます。投げだされたランドセルに、散歩中の犬が鼻をくっつけていきました。自転車に乗ったお坊さんがむこうからやって来ます。そのとりあわせになんとなく笑ってしまいましたが、すれちがいざまに感じのいい会釈を残してくれました。
 きれいに舗装された通りの模様を眺めながら歩いていると、コンクリートの上に、植物のツタが一本よこたわっていました。根もとはどこだろうと横を見ると、ツタは植え込みの中からのびています。その奥は、小さな公園でした。
 ツタはまるで僕の素通りを拒んで、とおせんぼをしているみたいに見えました。下をむいて歩く僕のくせを知っているかのようだなと、おかしくなります。ちょうど今日はたくさん歩いて疲れていたので、公園でひと休みしていくことにしました。
 誰もいない公園は、懐かしい匂いがしました。行き場をなくした笑い声や泣き声がぜんぶ集まってしまったような、ひっそりとしているのにどこかざわついた空気。
 僕は鞄をベンチに置いて、鉄棒をにぎりました。日光を含んだ生温かい感触と鉄の匂いが僕を包みます。鉄棒に足をかけて、逆さになって公園の景色を眺めてみました。こうすると世界がまるで表情を変えるので、楽しくて仕方なかった想い出があるのです。頭に血がのぼって腕がしびれるまで、天井から生える滑り台やぶらんこを眺めていました。 
 今はからだの疲れの方にまず意識が向いて情けなくなってしまうのですが、夕方の光の中で逆さまになったら、頭の中で凝り固まった余分な考えが、するする落ちていくような気がしました。
それから僕はぶらんこに座って、少しのあいだ目を閉じました。

 子供の頃、どうしても公園を独り占めしたくて、朝早くにこっそり家を抜け出したことがありました。ひとりきりでジャングルジムのてっぺんに立ったら、きっと素晴らしく気分がいいだろうと思ったのです。
 早朝の公園はいつもとおなじ顔立ちなのに、どこかよそよそしい表情をしていました。すべてのものが鈍い光をたたえています。
 最初に触れた鉄棒のひどく冷たい感触を、僕はまだ憶えています。てのひらから伝わる温度は、いつだって記憶にまで沁みつきました。ぎこちなく逆上がりをしてから、ぶらんこをゆらしました。落ち着かないまま、ジャングルジムに登って頂上に立ちます。
 町はまだ半分眠っていました。新聞を積んだ自転車が走って行くのが見えます。遠くの工場から流れる煙が、薄青の空に溶けていきました。
 見下ろせば、誰もいない公園が広がっています。僕だけの小さな世界です。偉い人のような気分になれるかなとわくわくしていたのですが、実際はあっけないものでした。僕がいることなんて、誰も知らないのです。それでも幼い僕のこころは満たされていました。公園を守る、見張り番にでもなったような気分でした。
 背中に光の気配を感じて振り返ると、太陽が顔を出し始めるところでした。不安定な足もとをしっかり踏みしめて見上げた空は、驚くほどに大きく、僕はいっしゅん目を見張りました。空と繋がったような、ふしぎな気持ちでした。
 その時にはじめて、僕は世界のひろがりを感じました。

 気がつくと、頬にあたる光がすいぶんと弱くなっていました。
 幼い頃、細くてからだが小さかった僕は「おまえは漕がなくても、風が吹くだけでぶらんこがゆれるな」とからかわれていました。くやしくて泣きながら姉に話すと、姉は「漕ぐ手間がはぶけていいじゃない」とあっけらかんと言いました。そしていつも、ぶらんこに乗った僕の背中を勢いよく空の方に押し出しました。となりで派手な音を鳴らしてぶらんこを漕ぐ姉の姿を、僕は誇らしく見ていました。いつのまにか大きくなって、姉も僕も公園では遊ばなくなりました。
 今はもう、ぶらんこは風だけではゆれません。背中を押してくれる力強いてのひらもありません。でもそれは、失ったということではない気がするのです。あのとき僕のからだをゆらした風も、姉のてのひらも、ずっと生きていて誰かのからだに触れています。たとえ消えてしまっても、僕の中に伝わった感触は、ほんのささいな景色や匂いで何回も生き返るでしょう。うつむいて歩く僕がふと上を向いたなら、ジャングルジムのてっぺんで空を見た時の想いと、再会しているのかもしれません。
 女の子の手をひいた母親が、公園の前を通りかかりました。ひとりでぶらんこに座る僕を見て、母親はさりげなく視線をそらしましたが、女の子は小さく笑って手をふってくれました。
 一度は背を向けた公園で、僕は繰り返されていく景色のことを想いました。僕にとっては懐かしい匂いのする場所も、誰かにとっては「今」親しい場所であるということ。明日になれば僕の小さな感傷を蹴散らして、ここには子供たちの朗らかな声が響くでしょう。
 僕はもういちど、ひととき公園の見張り番に戻ります。
 そして自分のちからで、ゆっくりとぶらんこを漕ぎはじめました。

 
    
                                

                                 

    <おわり>




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 変わるものと変わらないもの、変わっていくことと変わらないでいること。
両方とも大切にしたいです。



Story & comment by ゆとり




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