家の声
Poem & Photo by Akemi Murata
人の気配はない
閉め切られた木戸
家を覆うように伸びる
ツタの触手から
逃れた壁の一角だけが
夕陽に照り映えていた
はじめて訪れた町
はじめて迷い込んだ路地
たまたま目にした
この家に
誰が住んでいたか
どんな暮らしがあったのか
何ひとつ知らない
それなのに
動けなくなった
家に声があるとしたら
呼びかけられたのか
心の木戸をあけ
懐かしさとも
切なさとも
つかない感情が
霧のように
流れ込んでくる
夕陽に照らされた壁に
セピア色の文字盤が
重なって見えた
時計の針が
ぐるぐる
逆回り
家を覆っていた
ツタは
するすると
消えて無くなり
息をふき返した壁に
照り映える夕陽だけが
変わらない
路地のどこかで
子どもたちの遊ぶ声
通奏低音のように流れる
夕げの匂いをトントンと
まな板のうえ包丁の音が
刻んでいた
窓からこぼれるラジオ放送
アナウンサーの口調も
流れてくる音楽も
どこかぼんやり
夢み心地
(お父さん?)
家の主らしき人が
帽子をかぶった背広姿で
通りの向こうからやって来る
この家の木戸を開けると
つづいて玄関の引き戸
ガラガラ
その音に駆けてくる
子どもたちの足音
「おかえりなさい」
「ただいま」
父と子の弾んだ声は
やわらかな灯りと
団らんの匂いに
くるまれ輪を描き
戸の隙間から
シャボン玉のように
まるくこぼれて
浮かんで
消えた
この家の記憶だったのか
私自身のものだったのか
その輪郭さえ曖昧にして
夕陽は空に溶けていった
アンダンテ・カンタービレ
そんな音楽用語が
残照のように降りてくる
アンダンテ・カンタービレ
アンダンテ・カンタービレ
ゆっくり呪文のように唱えながら
家を背に路地を抜け
また歩きだす
わたしの旅はまだ途中だから
遠く遥かな安らぎの手ざわり
心の木戸の奧ふかくしまって
アンダンテ・カンタービレ
昨日からつづく道のうえを
ゆっくり歌うように
歩きだそう
詩・村田あけみ
2009.5月 村田あけみ
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