【エッセイ】

いのちの忘れ物

Written by Akemi Murata
Photo by
Norio Hatakeyama


母さんは生涯、きれいなものや、可愛いものが好きだった。

いっしょに旅行した時も、みやげもの屋があれば立ち寄って、マスコットやお人形のたぐいなど、あれこれ手にとっては目を輝かせていたものだ。「また買うの?いっぱい持ってるのに」と忠告しても、そんな声など、どこふく風。うれしそうに買い求めては、るんるんと歩いて行く無邪気なうしろ姿が、いまも目に浮かぶ。

自分のためだけではなく家族や知人、あの人、この人、プレゼントしたくなる相手の顔がつぎつぎ浮かぶのだろう。いちどに幾つも購入したりしていたから、いっそう物は増えつづけた。おまけに、戦中、戦後の物のない時代に育ったせいか、いちど買ったものは無用だと分かってもなかなか捨てられない。きれいな包装紙やリボン、お菓子が入っていたカンや箱まで大事にしまい込んでいたものだ。

とはいえ、そんな母の習性を、とくに気にしたことはなかった。

物を買いたいとか欲しいとか、私自身はあまり強く思う方ではなかったから、衝動買いする母を、あきれて眺めてはいたものの、楽しそうに買い物している屈託ない表情を見ていたら、無理にとめる気にもならなかった。ましてや、母の持ち物の“その後”まで、考えたこともない・・・そう、少なくとも、

 母が亡くなるまでは、そうだった。



生きているうちから「遺品」について考える人は、あまりいないだろう。

たいていの人は日々、自分の持ち物が「死後どうなるか?」なんて思い巡らすこともなく、
何気なく物を買い、時にはもらい、多かれ少なかれ“物にとり囲まれ”生きている。

出来ることなら何ひとつ遺さず、降り積もった雪が溶け、気化するように逝きたいと、ひそかに夢想したりもするが、悲しいかな、肉体という器(うつわ)を持って生まれ、服を着たり、食器を使ったり、あれが欲しい、これも欲しいと、さまざまな欲望も捨てきれない、人間という厄介な生き物には、綺麗さっぱり何も遺さず逝く....なんて神業は、そもそも無理なのかもしれない。

どんなに清貧に生きたとしても、数枚の衣服や、箸と茶碗くらいは遺るだろう。

ひとつの人生が終わった後には、いのちの忘れ物のように
「遺品」という名の山がひとつ、ひっそり遺される・・・そのことに気づいたのは、

母の死という、悲しみの木戸をくぐった時だった。


生まれて初めて味わう、津波のような悲しみにもまれながらも、誰よりも気落ちして、すっかり小さくなった父を見ていると、泣いてばかりもいられなかった。形見分けもしなくてはいけないし、父のこれからのこともある。その時はじめて、私は母の「遺品」の山と向かい合い、しばらく呆然としたものだ。

買い物好きということは知っていたが、まさか、これほどの量になっているとは思ってもいなかった。

引き出しや押入のなか、果ては納戸部屋の天井まで届くほど、積み重ねられた段ボール箱の中から、ありとあらゆる物が、出てくる、出てくる・・・小さな人形、さまざまな食器類、美しい布きれ、装身具、なぜか新品のオモチャや文房具、買ったまま封も開けず古くなった、外国土産のお酒や香水...etc.

その中には、北海道まで注文して届けてもらったらしい昆布もあった。昆布と言っても普通の量じゃない。白く粉をふく長くて巨大なダシ昆布が、ぐるぐる巻きのままぎっしり詰まった段ボール箱が、数箱分。さすがにこれには驚いた。

「こんなに大量の昆布、いったいどうやって使うつもりだったの?」
 と思わず、亡くなった母に問いただしたくなったものだ。


遺品を片づけているうちに、思い出の品々もいろいろと出てきた。セピア色になった父や母の若き日の写真から始まり、家族で撮った沢山のスナップ。アルバムには納まりきらなかった写真たちが、無造作に化粧箱や袋に入れてあった。写真館で撮ったらしい女学校時代の母や、大学時代の父。それぞれの見合い写真とおぼしきものもある。はじめて目にする両親の、ういういしい表情にすこしドキドキしながら、父や母にも当然あった、子供時代や青春時代とはじめて対面した。


兄や私が子供の頃にかいた絵や作文、もらった賞状もあれこれ出てきた。たいした賞でもないのに、母は大事に取ってくれていたらしい。大きいがやけに軽い箱があるので開けてみると、子供の頃、クラシックバレーの発表会で着たチュチュ(バレー衣装)が仕舞ってあった。かさばるし置いておいても何の使い道もないのに、やはり捨てられなかったのだろう。ごていねいに、防虫剤まで入れてある。キャンディーの包みみたいな、その淡いブルーのバレー衣装を見つめていたら、ふいに遠い日の光景がよみがえってきた。

舞台の袖までやって来て、心配そうにリボンを結び直してくれた、まだ若い母。
まるで自分が舞台に立つように頬を染め、ひどく緊張していたものだ。そう言えば、母はいつもそうだった。

私がピアノや歌の舞台に立つ時、結婚式の時も、晴れの舞台で“娘が恥ずかしくないよう”いつも母親らしく細やかに気づかってくれていたものだ。そんな母を、うっとうしく感じた日々もあった。でも、今ならきっと素直に言えるだろう・・ありがとう。ただ、その言葉を伝えたい、肝心の相手がもういない。

そのことに気づいたら、バレー衣装を抱きかかえたまま、ほこりっぽい納戸部屋にうずくまり、
涙がとまらなくなった。張りのあるチュチュの生地が、頬にあたって、さりさり痛い。


 


その三年後、父も母のあとを追うように、逝った。

母に比べると、父の遺品はシンプルそのものだった。大半は、レコードと本。かなりの読書家で、父のポケットにはいつも文庫本が一冊入っていたものだ。亡くなったその日も、テーブルには読みかけの小説が一冊のこされていた。手近な包装紙を切って、自分で本にカバーをつけ直して読むのが、なぜか父の儀式のようなものだったが、最後の一冊にも、お気に入りの饅頭屋さんの包装紙がきちんとまいてあった。中身は、モーパッサンの短編集。紙が黄色く変色した古い本だったから、遠い昔に読んだものをまた書棚から出してきて読み直していたのだろう。

「それにしてもお父さん、フランス文学に、まんじゅう屋の包装紙はないんじゃない?」

 そう心のなかで話しかけながら、そんな気取りのなさも、やはり父らしいと思った。
 ひょっとしたら、父独特のユーモアで、その落差をこっそり楽しんでいたのかもしれない。


そんな風に本を愛し生涯、文学青年のようなところのある父だったが、自ら「論じる」とか「書く」というタイプではなかった。だから手紙以外に、父が書いた文章を読んだ記憶はいちどもない。ところが、遺品の整理をしていたら一冊だけ「文集」が出てきた。

どうやら小学時代の同窓会仲間たちが、還暦を迎えた記念に人生を振り返って作ったものらしい。
文集の表紙には、『六十年間で最も印象に残っていること』というテーマが、書かれている。

父の作品も入っているのかしら・・とページをひもとくと、見つかった。他の人たちのほとんどは、それぞれの人生における私的なエピソード、仕事で成功した時のことや、結婚のこと、子供のことといった、いわゆる自伝的トピックスを書いているのに比べ、父の文章は一風、変わっていた。

『点描』というタイトルで、感情はいっさい加えず、ただ淡々と、学徒動員で行った中国大陸で見た印象にのこる光景を何シーンか描いているのだが、その中のひとつは上海のとある公園。朝の光の中、目の前を颯爽と横切ったひとりの若者の描写だった。

赤い革靴に真っ白の上下の背広、当時の上海の国際的な雰囲気を漂わせる小粋な青年の出で立ちを見つめる、父は軍服に身を包み、その公園で小休止の途中だったようだ。目のまえを通り過ぎていったその同年代の若者の、シャレているがけっして軽薄とは感じられない文化の香りに、父は一瞬、戦争中であることを忘れたのだろう。自由人のゆとりと明るさへの憧れがさらっと香ってくるような文章だった。

上海埠頭から復員する際、引き揚げ船から見た光景も描かれていた。帰国したいのに乗りきれなかった、引き揚げ邦人の群れが、埠頭の先端から海を眺め岸壁に立ちつくす様子がただ描写されている。その光景に関して、父の感情や意見は何も書かれていなかったが、『六十年間で最も印象に残っていること』が、そのシーンであったということに何だか胸が痛くなった。

命令で船に乗ったものの、学徒動員とはいえ兵隊だった自分が先に帰り、婦女子も含まれた民間人が乗れずに岸壁に立ちつくしている姿が目に焼きつき、父を責めつづけたのかもしれない。こんな話しは、いちども父の口から聞いたことはなかったが、それだけに何でも知っているつもりだった父のことを、本当は何ひとつ知らなかったのかもしれないと、文集の開いたページをしばらく見つめていた。

遺品を整理するということは、ひょっとしたら
故人ともういちど“出会う”ことなのかもしれない。

父は生涯、アナログ派だった。若い頃からずっと聴きつづけていたクラシック音楽も、最後までCDでは聴かず、古い時代の重いSP盤すら処分しないで、それが聴けるステレオを探して買い直してまでも、古い名盤たちを愛聴しつづけていた。もちろんLP盤は聴いていたが、SP盤の雑音の向こうに、遠い時代を聴いていたのかもしれない。

時計も、デジタルとかの数字が出るものは、どうもニガテらしく
「パタン、パタン、数字が変わったら、生きてるのがせわしないがな」

と言いながら、ひょうひょうと古い腕時計を愛用していたものだ。

その時計がまた気まぐれで、止まったり遅れたり、ちっとも時計の役目を果たさないのだが、
“それもまた良し”と腹を立てることもなく、愛用しつづけていた。

ところが母が亡くなった時、そんな父が、ふいに腕時計をかえた。

長年愛用していた時計は外し、母が使っていた小ぶりの腕時計(幸い、女性用とはっきり分かるデザインではなかったが)を、いつも腕にはめるようになったのだ。「軽くて使いやすいから」と言うのが父の言い分だったが、もちろんそんな理由じゃないことは、すぐに分かった。

その腕時計はいま、母の遺品から、父の遺品となり、チクタク......私の時間を、刻んでいる。


遺品というのは、おかしいほどその人生を映していたり、故人に似ているものだと思う。
いつか私も、自分によく似た、自分色の遺品を、ひと山のこして逝くのだろうか。

その時は、できるだけ迷惑をかけないよう、厄介な物は遺さないでおこう・・・と思うけれど、
果たしてそううまくいくかどうか、はなはだ、あやしい。


ちなみに、母が遺したあの“膨大な量のダシ昆布”のその後だが、毎日すこしずつ食べつづけている。

これがダシをとってみると吃驚するほど、美味しいのだ。聞くところによると、極上の昆布は上質のワインのように珍重され、時代と共にますます美味しくなるのだそうだ。あと何年、食べつづけられるだろう。あんなにあって、最初は途方に暮れた昆布だったが、減ってくると淋しくなってくる。母の昆布でダシをとった、味噌汁や吸い物を口に運ぶたび

「ほら、美味しいやろ?私が買う物に、間違いはないんやから」と、

鼻高々に自慢する母が、毎日、湯気のなかに浮かぶようだ。


エッセイ・村田あけみ 

【END】



Comment

『遺品』を扱ったエッセイなんて、縁起でもない・・と
言われそうな気もしましたが、いちど、どうしても
書いておきたい、テーマでした。

人生の置きみやげ、いのちの忘れもののような
『遺品』には故人からの、メッセージが
いっぱい宿っていると思います。

村田あけみ

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このページに添えた写真の数々は全て、Norio Hatakeyamaさんが
撮影された写真を使わせていただきました。 Hatakeyamaさんは
我々が那須に引っ越して来てから知り合った、大切な友人であり、
テレビ・ビデオ制作・イラストなどのお仕事をされている方です。
素晴らしい写真を提供してくださった友情に、心から感謝します。

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