にじ

文と絵・むらた あけみ

第10章   - mado -


「入り江にあらわれた少女は、フラウディーテ姫だったんだよね」

すき通った鳥のからだの中で、たぽんたぽん揺られながら、リトがクプカにたずねました。ガラス窓のような鳥のヒフさえなければ、手で触れられるほど近くに、石のレリーフが見えます。

「あ、たしかにフラウディーテ姫だよ。
   もっとも、エルテミスがそのことを知ったのは、
 もっとずっとあとだったがね・・ほら、あの壁画を見てごらん」

クプカにうながされて見ると、あたらしい一枚がまた姿を現わしていました。そこには、いちだんと美しく成長したフラウディーテ姫が描かれています。少し傾斜した林の小道を、かけ降りていく瞬間のフラウディーテです。

それにしても、なんてみずみずしい美しさでしょう!

石には、風になびく長い髪はもちろん、彼女のしなやかな体にまとわりつくうすい衣の流れる線まで、繊細に彫り込まれていました。フラウディーテの瞳はよろこびにかがやき、白いほほはバラ色に染まっているようにさえ見えます。

「なんだか、とってもうれしそうだね。
   いったいどこに、かけて行くんだろう・・」

リトがそうつぶやくと、小鳥のさえずりがレリーフの向こう側から、ふいに流れてきました。木々も風も光りもいっせいに息をふきかえしたようです。フラウディーテの肌が、いつのまにかやわらかく息づいています。

彼女の視線の先には、エメラルドのような輝きをたたえた海がキラキラかがやいていました。かけ降りるごとに、海はフラウディーテの瞳のなかで大きく広がって、まるで彼女を抱きよせるようにやさしく波うっています。


エルテミスが優勝した「海の祭典」のあと間もなく、王は、病気がちだった妻を亡くしました。それ以来、愛する娘までも失うことをおそれた王は、宮殿と中庭よりほかに、娘を外には出さなくなったのです。

そのかわり、王はさまざまな美術品や宝物を、遠い国々から娘のために持ち帰りました。

美しいものに囲まれたきらびやかな宮殿での日々。それはさながら『宝石箱の中の暮らし』のようでした。けれど、戦さや政(まつりごと)に忙しい父王と過ごせる時間は少なく、フラウディーテにとっては、とても淋しい子ども時代だったのです。

そんなある日、宮殿のひとつの“窓”が、幼い姫の心をとらえました。その窓からは、白い砂浜がすこし見えるのです。海が見える窓は、ほかにもたくさんありましたが、砂浜が見える窓はそこだけでした。姫は窓辺にほおづえをついて、あきもせず毎日、白い砂浜と打ちよせる波を遠く眺めていました。

するとある日、ひとりの少年が、その浜辺にあらわれたのです。

少年はいつもおなじ時刻に、毎朝その場所にやってきました。彼はどうやら、入り江のイルカたちに餌を与えているようです。遠く小さくしか見えない少年のしぐさが、手にとるように感じられたのはなぜでしょう・・しかも、彼にこたえるイルカたちのようすや気持ちまでも、フラウディーテにはわかる気がしたのです。

その少年が、あの「海の祭典」で優勝したエルテミスであると知ったのは、もっとずっとあとのことでしたが、フラウディーテは窓辺で、彼の姿を待つようになりました。イルカたちといっしょに泳ぐ少年の姿を見ることができた日は、青い海の中を自分もいっしょに泳いでいるような、なんとも不思議な感覚を味わったものです。

いつしかフラウディーテの心の世界で、少年とイルカは
かけがえのない、友だちになっていたのです。


やがて、幼かった姫も、美しい少女に成長しました。
そんなある夜、ひとりの小間使いの娘が、ある提案をもちだしました。娘は、ながくフラウディーテのそばに仕え、いちばん気心のしれた小間使いでした。

「姫さま、わたくしは明日の朝ひととき、姫さまのお着物をつけて
 このベッドで横になり、姫さまになりすましておりましょう。
  もし声をかけられても、ずっとおそばにおりましたから、
     姫さまの声まねは得意です。
   そうすればその間だけ、姫さまはわたくしの服をまとって、
     宮殿の外へお出になれますでしょ・・・」

『宮殿の外に出る』それは、姫にとって夢のような提案でした。

けれど、もし見つかれば小間使いの娘はひどい仕打ちをうけるでしょう。やはり出来ないと、フラウディーテは断りました。ところが、勇敢な兵士の父親をもち、どこか男まさりなところのある娘は、きっぱりとした表情でいたずらっぽくこう言ったのです。

「わたくしはもう毎朝、姫さまがあの窓から
  浜辺を眺めつづけるのを見るのに飽きてしまいました。
   だから明日の朝は、あの浜辺に立って、
    宮殿の窓に手をふってくださいませんか?」

よく朝、フラウディーテは、まだうす暗いうちに宮殿をぬけだしました。

窓からおぼえ知った道をひたすら走り、あの浜辺に夢中でかけ降りたのです。何年間も見つめつづけた浜辺に立ったとき、フラウディーテは裸足(はだし)になって砂浜の感触をたしかめました。そして、いつもほおづえをついていた宮殿の窓に向かって、のびやかに高く手をふったのです。


それが、あの“出会いの朝”のはじまりでした。

あの朝から、フラウディーテはなんど、この道をかけ降りたでしょう。
エルテミスはなんど、この入り江で彼女の姿を待ちこがれたでしょう。

“永遠に重なる一瞬”からめばえた何かは、とまどいながらもきらめくような喜びにふるえて、おさえようもなく育っていったのです。


夜の入り江で、いつかエルテミスはイルカの瞳に問いかけたことがあります。

「はじめて出会ったとき、
 あんなになつかしい気持ちになったのはなぜだろう?
  きっと彼女が、子どもの頃に見たタペストリーの
   “花の精”に、とても似ていたからだろうね・・・」

けれど、ひたいに三日月のしるしがあるイルカ“最初のリト”は、だまってエルテミスの瞳を見つめかえしていました。

「ちがうって言うの?」

イルカの黒い瞳は、まるで真実を映す鏡のようです。

ふいに、エルテミスの記憶の水底(みなそこ)から、あぶくのようにひとつの光景がよみがえりました。それは、はじめてタペストリーの“花の精”を見た瞬間の光景です。

幼いエルテミスはその日、かくれんぼをしていて宮殿の大広間に迷い込みました。すると、ふいに差し込んだ西日がタペストリーを赤く照らし出したのです。そこに“花の精”はいました。

タペストリーには、たくさんの美しい女神や妖精たちが描かれていました。それなのに、なぜ中央の女神ではなく片すみでほほ笑む少女がエルテミスの心をとらえたのでしょう。とにかく、あふれるようななつかしさに包まれて、幼いエルテミスのほほにはとめどなく涙があふれていました。

「あのタペストリーの“花の精”を見るもっとまえから、
 ひょっとしたら彼女のことを、知っていたのかもしれない」

幼い日の記憶から戻ったエルテミスがつぶやくと、その言葉に答えるように、イルカの黒い瞳にうつる夜空を、ひとつの星がスーっと流れました。


どうしたのでしょう?

エルテミスといっしょに星が流れるのを見たと感じた瞬間、まるで夢からさめたように、リトはハッとわれにかえりました。すき通った鳥のからだごしに、石にもどった“かけ降りるフラウディーテ”のレリーフが、見えます。

その時です!
いままでにない激しい振動が、突然リトとクプカをおそいました。

「わーっ!」

すき通った鳥のからだの中は、まるで大嵐にあった海のようです。
“いったい何が起こったのか”あわだつ激流にもまれながら、リトとクプカはたがいの体にしがみついて考えました。

『鳥が空に飛びたったのだろう』ふたりが最初に考えたのはそのことです。でも、すぐにちがうことに気づきました。すこし揺れになれた目でまわりの風景を観察すると、鳥はどうやら上ではなく下の方に向かっていたのです。

振動でクラクラしながらリトが言いました。

「し・したって、いったい下に何があるのサー?」

ふたりはなんとか下のようすを見ようと、鳥の足元の方へ移動してみることにしました。

あっ、なにか見えます!

どうやらそれは、古い石の階段のようです。すき通った鳥は、ピョンピョンと器用に階段を一段ずつとびながら、どんどん下の方に向かっていました。それにしても長い階段なので、先の方は暗くてどうなっているかよく見えません。

不思議なことに、下に降りるにつれ太陽の光りがさえぎられて暗くなるはずなのに、鳥のまわりだけは明るいままでした。どうやら、鳥の“からだそのものが光っている”からでしょう。すき通った鳥は、まるで巨大なガラスのランプのように、まわりの壁面を照らしだしていました。階段の横の壁面には、たくさんのレリーフがならんでいます。ただし、ジャンプしつづけている鳥のからだの中からでは、壁画に描かれた絵柄をしらべるなんてとてもムリです。

「やっぱり、あの植物の下には、
       こんな大きなものがかくれていたんだね!」

クプカのコウラにしがみつきながら、

リトが興奮して叫びました。


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