クプカのにじ
文と絵・むらた あけみ
第五章 オレンジ色の幻想
ふかい海の色と、光線のせいだったのでしょうか・・みどり色に見えたシルエットは、水面に近づくにつれてしだいに色がうすくなり、いまではほとんど灰色に見えます。
ザバーン!
ひときわ大きな白い波をあげて、ついにそれが海面に姿を現わしました。まるで、大きな仕掛け舞台が、せり上がってくるようです。水面に出たとたん、そのデコボコした灰色の巨体は、無数の水柱(みずばしら)を噴きあげました。それはさながら、海底火山が爆発して、ひとつの島が、誕生する瞬間のようです。
それにしても、いったいぜんたい、コレはなんなのでしょう?
水柱がしずまるのを待って、人々はじっくり「それ」を観察しました。そしてようやく、その姿を理解したのです。まずわかったことは、それが“ひとつだけ”ではないということでした。つまり、「それ」ではなく「それら」だったのです。灰色のデコボコした巨体だと思ったものは、ひとかたまりの物体ではなく、おなじものが寄りそうようにしてつくりだした集合体でした。デコボコに見えたのは、かれらの背中が重なり合ってつくりだした形だったのです。
「これは・・・いったい、どういうことなの!?」
リトが、ひどくおどろいたのも無理はありません。
それらが、いっせいに噴き上げた水柱は、じつは、かれらの頭のてっぺんにある鼻の穴から噴き上げられた「いき」だったのです。そして、その穴とまったくおなじものが、リトの頭のうえにもありました。
もう、おわかりでしょ?
そう・・かれらは、リトとおなじ「イルカ」だったのです。
しかも、リトでさえ見たこともないほどの、たいへんな数の大群でした。
ふつう海のイルカは、30頭くらいで群れをなして生活しますが、いま目のまえに現れたイルカの数は数百頭・・いえ、もっといるかもしれません。しかも、そのすべてのイルカたちが、ぴったりとカラダを寄せ合って、まるでひとつの意志をもって動く大地のように、浮かび上がってきたのです。そんな光景を目にしたのは、イルカのリトだってはじめてのことでした。
もちろん、おどろいたのはリトばかりではありません。
まわりの軍船からは、海鳴りのようなどよめきがわき起こりました。甲板では、王さえもが、信じられないものを見たというように、ぼうぜんと目をみはっています。
「王さま、あれを!」
突然、兵士のひとりが、イルカたちが形づくる島のまん中あたりを、指さして叫びました。なにかが乗っているのが見えます・・あれは、どうやら人間のようです。
「エルテミスだ!」
リトは、歓声をあげました。
そう、しばりあげられたまま、ぐったりと横たわって身動きもしませんが、それはたしかに、海に身を投げたエルテミス王子でした。どうやら、船上でも、そのことに気がついたようです。エルテミスを処刑しそこなった兵士が、すばやく弓矢を取り出しました。
「王さま、こんどこそ間違いなく射止めます!」
そう言うと、兵士はからだをそらせて、力のかぎり弓を引きました。矢は、エルテミスにねらいをさだめて、まさに放たれようとしています。そのときです。
「やめろ!」
王の声がとどろいたのです。
するとどうでしょう?
王のひと声が、まるで合図にでもなったように、イルカたちは、はしの方から順にバラバラとほどけて、広がりはじめたではありませんか。王をいざなうように、イルカたちがひとすじの道をあけていきます。その道は、エルテミスをのせているイルカの群れへと通じていました。
「あの少年を助けるのだ」
王は、しばらく考えたのち、意を決したように命令を下しました。そのとたん、なぜか兵士たちの間には、安堵ともとれるざわめきが、さざ波のようにひろがりました。軍船はしずかに、イルカたちがつくった海の道をすすんで行きます。エルテミスを背中にのせた、イルカの一群のところまでくると“なわばしご”が降ろされました。王の命令を受けて、ひとりの兵士が降りていきます。兵士が海面に降りると、三頭のイルカが、エルテミスをのせてすべるように近づいて来ました。兵士はなわばしごにつかまりながら、イルカたちの背中から、小さなエルテミスを、片腕で抱きあげました。
「どうだ?まだ、生きているか?」
甲板から、王が待ちきれないとばかりに叫びました。
エルテミスのからだは、ぐったりとしたままピクリとも動きません。しばらくして・・・兵士は力なく首をよこにふりました。
「だめだったのか・・」
すこしまえに、処刑しろと命令を下したその少年が、望み通り死んだだけなのに、なぜか王は、ひどくがっかりしているように見えました。
そのときです。一頭のイルカが、しずかにエルテミスに近づきました。そして、突然ジャンプしたのです。イルカは、空中高く舞い上がり、弧を描いて海に飛び込むと、その瞬間に、エルテミスの背中を、尾ビレでバシッとたたきました。
するとどうでしょう?
死んだと思ったエルテミスが、ゴボゴボッと口から海水を吐き出したではありませんか。
「だいじょうぶです!水を吐き出しました。まだ、生きています!」
エルテミスをしっかりと抱きかかえたまま、兵士は船上を見上げ、声を限りに叫びました。
その声に、まわりの軍船からはドーッと歓声がわき起こりました。甲板には、大きくうなづきながら笑っている、王の顔も見えます。
「ねえ、クプカ・・人間って、へんな生きものだね」
リトは、そのようすを眺めながら、つくづく不思議そうに言いました。
「うん?」
「だって・・平気で殺し合うくせに、あの子が助かったといって
いまは、あんなに喜んでいるんだもの・・」甲板に引き上げられ、手厚い看護を受けているエルテミスを見おろしながら、クプカは、しずかに答えました。
「たしかに、人間というのは、つくづくへんな生きものさ。ただ、ちょっと覚えておくといい・・
あたたかいものが、風のように流れる一瞬があっておなじ人間でも、
まったく別のものになれたりするんだよ。そしていま、その風をふかせたのは、
おまえの仲間たちなんだ・・」
気がつくと、海は、いつのまにか夕焼けに染まっていました。
思わぬことからいのちを救われた、敵国の王子エルテミスをのせて、軍船の一団が、母国の港をめざして動きはじめたようです。船の通ったあとには、白い航跡ができます。夕陽のオレンジ色が、航跡の白いあぶくにとけこんで、にじみながらゆれていました。あんなにいたイルカたちも、どうやら、おもいおもいの海へ帰っていったようです。もう、どこにもすがたが見えません・・・そのときです。
リトが叫びました。
「ねえ、クプカあれを見て!」
見ると、イルカが一頭だけ、まだ残っていたようです。
しかもそれは、さっき尾ビレで、エルテミスの背中をたたいたイルカです。
どうやらイルカは、エルテミスをのせた軍船を、追いかけているようです。
白い航跡のあとを、どこまでもどこまでも、ついていきます。
海にしずむ夕陽が、イルカをオレンジ色に染めていました。
海面を飛びつづける、流線型(りゅうせんけい)のからだが、太陽のひとしずくのように、キラキラとかがやいています。
オレンジ色のイルカは、まるで白い航跡と
たわむれているように見えました。