クプカのにじ
文と絵・むらた あけみ
第八章 海をとぶ翼
<藍色の詩>
すきとおった鳥が、黄色い実をひとつ食べ終えると、ちょうど果実ひとつぶんのすきまができました。そこに突然、“それ”は姿をあらわしたのです。もっと近くでその正体を確かめようと、クプカとリトは鳥のからだの中を、泳ぐように移動しました。
たどりついた鳥のヒフは、やわらかなガラス窓のようです。その奇妙なガラス窓に顔をすりつけるようにして、よく見ると“それ”は、灰色の岩肌に彫りこまれた古い壁画のようでした。それにしても何てみごとなレリーフ(浮き彫り)なんでしょう!見たとたん、絵の向こう側から色や音まで伝わってくるかと思いました。細かなところまで精巧に、写実的に彫りこまれているので「何が描かれているか」クプカたちにもすぐ思い当たったほどです。
それは、イルカの大群が幼いエルテミスを背中にのせ、島のようにせりあがった、あの“瞬間”を描いたものだったのです。軍船はもちろん、甲板で海を見つめる豆粒のような人々の姿まで、おそるべき正確さで彫られています。あの王の姿も、ちゃんと見分けられます。
それにしてもいったい、これはどういうことなのでしょう?なぜ、ここにあのときの光景が刻まれているのでしょう?
わからないことだらけで、言葉もうかんでこないクプカとリトをよそに、鳥は右の方に少し枝をのぼると、またべつの実をついばみはじめました。するとどうでしょう。果実の下から、またあらたなレリーフが少しずつ姿を現したのです。
「ひょっとしたら、この植物の下には
とてつもなく大きな“何か”が、かくれているのかもしれないな・・」クプカがつぶやきました。そういえばこの辺りだけ、ジャングルが山のようにこんもりと盛り上がっています。
何か思いついたように、リトが突然、興奮して叫びました。
「ねえクプカ!じゃあ、この植物をぜんぶとりはらったらどうだろう?
きっと何かわかるはずだよ・・すべての謎がとけるような壁画が
もっといっぱい出てくるかもしれないよ!」そう言ったかと思うと、リトはもう、鳥のからだのカベに体当たりをはじめめています。でも、ゼリーのようなからだはスポンジみたいにやわらかでびくともしません。クプカも試してみましたが、ふたりともすぐ跳ね返されてしまいました。
仕方がないので、こんどは、口から外に出ようと上に向かって泳ぎはじめました。ところが鳥のノドのあたりまでいくと、流れが激しく渦(うず)をまいています。ふたりはアッという間に押しもどされてしまいました。あいかわらずのんびりとした表情で、鳥はムシャムシャ実を食べつづけています。クプカやリトのことなど、ちっとも目に入らないようです。すっかり疲れてハーハー息をきらしながら、リトが言いました。
「ねえクプカ・・なんとかならないの?
ほら、いつも時間旅行するときみたいに、コウラをふるわせるとか」でも、クプカは少し首をすくめると、こまったように答えました。
「それができるくらいなら、とっくにやってるさ。
この鳥のからだに入ったときから、過去はもちろん
もといた世界にだって、どうにも帰れなくなってしまったんだ」
どうやら、鳥が2つ目の果実を食べ終えたようです。こんど姿を現したレリーフには、リトのまったく知らない光景が描かれています。その時、クプカがかたわらで「あっ」と小さな声をもらしました。
「知ってるの?」
あわててリトが聞くと、クプカがうなずいて答えました。
「ああ、これはきっと競技会のときのようすだ」
絵柄の背景には、丘のうえにあの白い宮殿が見えます。前方に描かれている光景はたしかに、海のうえで行われている何かの競技会のようです。何そうもの船が浮かび、たくさんの人が海上で行われている競技を観戦しています。
クプカがゆっくりと、レリーフを見つめながら“競技会”について話しはじめました。するとどうでしょう・・石で出来ているはずのレリーフが、光と色と音をとりもどしたように、生き生きと動きだしたではありませんか。
少なくとも、リトにはそう見えたのです。
海上にひるがえる色とりどりの旗、打ち鳴らされる楽器、熱狂する人々の歓声・・潮の香りまで流れてきます。太陽にきらめく紺碧(こんぺき)の海で、今まさに競技会は、はじまろうとしていました。「海における力の祭典」と銘打って王が催したその大会には、王国きっての泳ぎの名手たちが一同に集められています。その中に、王の命令により特別に加えられた選手が一人いました。
それは、イルカに助けられ王に奴隷として連れ帰られた少年エルテミスです。
『なぜあの時、エルテミスは死ななかったのか・・』
しだいに疑問を感じた王は、どうしてもエルテミスの能力を試してみたくなったのです。
あれからすでに数年が過ぎていました。エルテミスのからだも、あの頃に比べればたしかに大きくなっています。とはいえ、屈強な大人たちにまざって競技場に現れたエルテミスは、あまりにも見劣りがしました。酔狂(すいきょう)な王の冗談だろうと思った人々が、エルテミスを指さしてヒザをたたき、笑いころげています。
「どれほど遠くまで泳げるか」
「どれくらい速く泳げるか」
「どれだけ深く潜れるか」競技会は、その3つの力を競い合うものでした。大量の息が吸える強じんな肺と厚い胸板(むないた)を持ち、足腰や腕の筋力にすぐれた者が勝利を手にするだろう・・・誰もがそう思ったのも無理はありません。
いえ、正確には“一人だけ”、そう思っていない者がいました。
その一人は、王のすぐそばに腰かけ、夢みるように歌を口ずさんでいます。きらめく海のアワのような金色の巻き毛が、真珠のようなうす桃色のほほにゆれています・・まだ小さな女の子です。それは、王のひとり娘“フラウディーテ姫”でした。王は、競技台に居並ぶ選手たちを満足げに眺めたあと、かたわらで無邪気に歌を口ずさんでいる娘に、ほほ笑みながらたずねました。
「フラウディーテ、あの中のどの男が勝つと思う?」
フラウディーテは、愛らしく首を少しかしげたあと、まよわず一人の選手を指さしてこう言いました。
「あのこ」
それは、おどろいたことに少年エルテミスだったのです。
『ま、子どもが子どもを応援したくなるのは当然だろう・・』
王は心のなかでそう思いながらも、少し興味をおぼえ娘にたずねました。
「なぜ、あの子が勝つと思うんだい?」
フラウディーテは、にっこりほほ笑むと空を見上げ、舞うように両手を広げました。それからその小さな手を水平線の高さに降ろすと、競技台のうえのエルテミスに向けまっすぐ差し出しながら、歌うようにこう言ったのです。
「ほら、海がほほ笑んでるわ・・・それにね
あの子には、翼があるの」「つばさだって!?」
さすがの王も、これにはおどろいて聞き返しました。
「つばさって、鳥がもっているあの翼かい?」
「お父さま、鳥にはお空をとぶつばさがあるでしょ?
あの子にはね・・・“海をとぶつばさ”があるの」
いよいよ競技がはじまりました。
深い藍色をたたえた海に、選手たちがいっせいに飛び込みます。必死の面持ちでくりだすたくましい腕。海にいどむように叩きつけるハンマーのような足。人々の声援はあらしのように高まり、そしていつしか驚きの声へと変わっていきました。
あのしなやかな泳ぎはいったい誰でしょう?
気持ちよさそうに波にのったムダのないなめらかな泳ぎ・・・それはまるで・・・そう、イルカのようです。
すべての競技が終わったとき、いちばん遠くまで泳いだ勝者は、いちばん早く泳いだ勝者となり、最後には、いちばん深く潜った勝利の栄冠をもその手にしていました。
大歓声のなか、表彰台のいちばん高いところにのぼるため
海からあがろうとしているエルテミスの華奢(きゃしゃ)な背中から、
銀色の水滴が滝のように流れ落ちキラキラとかがやいています。
その雫(しずく)のきらめきが一瞬、王の目には“つばさ”に見えました。
そしてフラウディーテの愛らしい声がよみがえったのです。
あの子には“海をとぶつばさ”があるの