<湯布院にて>


 もう永久に着けないか・・とさえ思えた
“湯布院”でしたが、なんとか明るいうちに
たどり着けました。まずは、駅の窓口で
特急券の払い戻しを。駅員さんは、私の説明を
聞きながらしばし切符を見つめ絶句したあと、
あきれたように言いました。


「それはまた・・ずいぶんと
遠回りされましたね
 お疲れになったでしょ?」


<由布岳>



 恥ずかしいやら情けないやらで恐縮しながら清算を終え、つぎは駅の観光案内所へ。予約を入れている宿『玉の湯』の名を告げると、係りの人が湯布院のイラストマップに、すぐさまサッと丸印をつけて1枚くれました。歩いて15分くらいだというし、早朝から“電車に住んでいた”状態で、今はちょっと歩きたい気分。ぶらぶら散歩しながら行くことにしました。


 趣ある駅舎を出ると、キレイなメインストリートがまっすぐ伸びています。石畳の歩道の両脇には、藍染のギャラリーやカゴ細工の専門店、骨董品屋、喫茶店・・センスのいい店が軒を並べ、つい覗きたくなりますが、ここは我慢。あまりにも今日は“遠回り”し過ぎました。ひたすら宿をめざすとしましょう。温泉地にありがちな俗っぽさを排除し、美術館や骨董、映画祭などによる町づくりで一躍有名になったというだけあって、派手なネオンやけばけばしい店などは見当たりません。宿に近づくにつれ緑もふえ、湯の里ならではのしっとりとした雰囲気が漂いはじめました。たそがれ時のやわらかな光をあび、目の前にふいに姿を現した“由布岳”は、火山らしいどこか味のある風貌をしています。


 「玉の湯」は小さな橋のたもとにありました。うっそうとした木立ちの影に、隠れ屋につづくような入り口があり、修行僧のような格好をした人が立っています。その人に案内されて雑木林の小道をぬけるとロビーがありました。けっしてきらびやかなものではありません。むしろ古寺のような静けさ・・品のいい調度品が落ち着いた雰囲気をかもしだしています。奥には、暖炉の燃える洋風のロビーもありました。
 九州とはいえ夕暮れどきはさすがに冷えます。駅から歩いてこごえた体を、パチパチと音をたて赤く燃える暖炉の灯が、ゆっくりとあたためてくれました。



案内された部屋は、ちょっと離家風。
庭が見えるテラスと、常に温泉をたたえた
ヒノキの内風呂が付いていました。

「ああ、やっと着いた・・」という思いで
父と顔を見合わせ思わずニッコリ。
 すぐに鞄から母の写真をとり出して、
部屋の机のうえに立ててやると、
母も心なしか「やれやれ・・」という
顔をしています。



 さて、日本旅館といえば浴衣と丹前。玉の湯で感心したのは、女性用のひと揃えに“一本の細い腰ひも”が添えてあったことです。ふいに母の言葉を思い出しました。

「旅館に泊まるときは腰ひもを一本荷物に入れなさいよ。きれいに着れるから」

 その教えは、大人になって仕事場からの旅行などで結構役立ったものです。「どうやったら旅館の浴衣がそんなにきれいに着れるの?」と何度か同僚たちに聞かれました。だらしなくなりやすい襟元や、浴衣のおはしょりの部分が、この1本で着付けられます(女性のみなさん、結構おすすめですよ)。


 さて、せっかくの温泉です。夕食まえにまずは露天風呂へ。ゆけむりの向こうに、夕焼けで淡いピンク色に染まった由布岳がそびえていました。温泉の湯は透明でトロリとした感触・・それにしても、この浴衣というのは日本人の知恵ですね。脱ぎ着がラクで、宿泊中、何度でも温泉に入りたくなります。


 湯につかると疲れもほどけ、とたんにお腹がすいてきました。

旅のよろこび・・至福(しふく)の時はもうすぐです。

さて、どんなごちそうに出会えるでしょう。



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