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 長野には、帰りにも泊まる予定にしていたから、冬の八ヶ岳を眺める楽しみは残したまま、二泊目の宿泊地、琵琶湖北岸の町をめざす。それにしても、いろんな地形の場所を車で移動していると、天候もくるくる変わる。真っ青な空がまぶしく輝いていたかと思えば、くろい雨雲の一団があっと言う間に近づいてきて、雨のカーテンに飲み込まれる。


 それでも、したたか雨に打たれ走り抜ければ
こんな虹に出会えたりも、する。

新幹線でさっと通り過ぎたのでは
おそらく味わえない感覚だろう。

 東京に暮らしていた頃は、知らず知らずのうちに
目的地に向かって、出来るだけ無駄なく
短時間に、ただ着くことだけを
考えていた気がする。

でも、無駄ってなんだろう。


Photo by Akemi Murata - NIJI -

近道ばかり考えていたら、出会えないものもある
・・・この虹みたいに。


関西で生まれ育ったわたしにとって
琵琶湖はなつかしい。
子供時代、少女時代.....いくつもの思い出がある。

翌朝、泊まった湖畔の宿から朝焼けが見えた。
心のひだに染み入るような色だ。
万葉の時代から、この湖はしずかに空を映しながら
どれほどの人々の暮らしを見つめ
どんな想いや溜め息をのみ込んできたのだろう。

その悠久の時の流れからすれば
欠片(かけら)のような「今」わたしは
琵琶湖と、朝焼けを見ている。

Photo by Akemi Murata - biwako -

 けれど、この朝焼けは、数秒後にはもう存在しない。今だけのものだ。子供時代や、少女時代.....この湖を見て、気づかなかったことに、いまやっと気づいている自分がいる。もちろん、失くしてしまったものもいっぱいあるのだから、プラスマイナス「ゼロ」かもしれない。でも、それでもいい。生きている以上、あがいたってとる「年」。それならいっそ「年を重ねる妙味」というものを堪能しない手はないだろう。

 10才には未来があり、80才には未来がないと思い込んでいる人が多い。けれど果たしてそうだろうか。80才の人だって81才は、これからはじめて体験する。また、誰しも「死の瞬間」は(年齢と関係なく)その出来事とはじめて向かい合うことになるだろう。そう考えれば、年を重ねることも、老いるということも、突き詰めれば死の瞬間すらも、赤ん坊がはじめて立ち上がり、歩き出す瞬間と「刹那の重さ」は変わらない......刻々と変化する朝焼けを見ながら、ふと、そんなことを思った。


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