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Photo by Akemi Murata - Seto 0ohashi yori -


 倉敷に着くと、夫の両親や妹の家族たちが元気に迎えてくれた。帰りを待ってくれている人たちが居るというのは、しみじみ有り難い。年の暮れ、両親と四人で、四国の松山まで瀬戸大橋を渡り一泊旅行に出かけた後は、穏やかな年末年始の日々を過ごした。年越し蕎麦、お節料理、お雑煮、お屠蘇、初詣、箱根駅伝、人生ゲーム、百人一首.....おそらく日本中のいろんな家庭でくり広げられたであろう「お正月の過ごし方」を、とどこおりなくやり終えると、那須に戻る日がやって来た。

 「車なんだから、これも持って行きなさい....」

 彼の両親が、つぎつぎ持たせてくれる日用品や手土産の数々。さながら引っ越しのようになった車に乗り込むと「帰省という名の旅」はラストスパートに向け走り出した。車のウインドウを降ろし、道に出て見送ってくれる姿を目に焼きつける。私の両親はすでに他界しているので、いつしかこんな「別れのシーン」になると、手を振る人の姿を「心に刻もうとするクセ」がついてしまった。「何度だってまた会える」そう信じてはいるのだが・・・やはり、そう思いながら別れ、結局そのまま永遠に会えなくなってしまった両親のことが、身にしみている。


 倉敷からの帰り道、母の七回忌の法要と墓参りに立ち寄るため、ふるさと大阪(堺)で高速を降りた。

 驚いたのだが、その高速の出口からしばらく一般道を行くと、わたしが生まれた家のある町名が目に飛び込んできた。静かな郊外の住宅地だが、車を使えばこんなに便利な場所になっていたらしい。生まれた家と言っても、小学校低学年で引っ越すまでの間、住んでいた家で、今はもう別の持ち主が建て替え当時の家は存在しない。ただ、垣根ごしに見える庭には、幼い頃よく木登りした「相棒」とも言うべき大きなクスノキが今も立っているはずだ。「ちょっと寄り道して、木に会いに行く?」夫の声に、もちろん大きく頷いていた。



Photo by Akemi Murata - Aibo no ki -


 「相棒」は元気だった。どうやら植木屋さんに葉を刈り込まれたのだろう、以前会いに来た時には、葉っぱに埋もれて見えなかった枝振りまで見てとれる。そうそう、てっぺんの枝振りはあんな感じだった。四方に張り出した枝の付け根あたりに腰かけ、小さな私はあそこから遠い世界を眺めていたものだ。原風景として深く心に刻み込まれた、垣根の向こうにつづく田園とそのうえに広がる空。けれどあの日、眺めていたものは、目に見える風景だけではなかった。思えば「一本の空想の船」に乗り込み出航したわたしの「旅」は、あれからずっと今もつづいている気がする。
(エッセイ「遠い木の声」参照)

 

 兄の家で母の七回忌を終えた後、和歌山にある海の見えるメモリアルパークに足を伸ばし墓参りもすませた。いつもなら、本数の少ない駅までの送迎バスを気にしながらお参りしなくてはいけなかったが、今回は車だから心おきなくゆっくり両親とも話しが出来た。その夜は、予約しておいた堺市内のホテルに一泊した後、翌朝、行きと同じルートで長野に向かった。

 八ヶ岳の峰々は、その姿を見せてくれるだろうか。


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