クプカのにじ
文と絵・むらた あけみ
第18章 瓶 - bin -
「あの日が、よんでいる!」
クプカの放った言葉が、ガラスのかけらのように時空を切り裂きました。
とたんに、まわりの風景がにじんで、ぼやけはじめたではありませんか。虹色の果実にクプカの心が消えると、その現象はますます激しくなりました。オレンジの木も海も空も・・・雨に打たれた水彩画のように、どんどん流れはじめます。
「リトさま、はやく!
いそがないと、時空の裂け目に押し流されますよ!」グノモンが、悲鳴のような声をあげました。
どうやら、ものすごいスピードで、世界が崩れはじめたようです。「わーっ!」
叫び声をあげたものの、すくんだように動けないでいるリトの心を、グノモンのエネルギーが、抱きかかえるように引き寄せて飛びました。
めざすのは、クプカが飛び込んで行った、あの虹色の果実です。
けれど、果実から発する七色の光りは、しだいに弱まってきたようです。
あのかがやきが消えたら、ふたりは行き場所をなくしてしまうでしょう。さっきまで見えていた風景が、いまでは水に溶けだした絵の具のよう・・いろんな色のぶきみな紋様が、うず巻きながら背後から襲いかかってきます。
『あー、光りが消えるよー、もうダメだ』
そう思った瞬間、リトの意識はふっと、遠くなりました。
ここはどこでしょう?
リトの心の目がさいしょに見たものは、なつかしい自分の姿です。
イルカのカタチをした、ぬけがらの自分の肉体が下の方に見えます。どうやら心がカラダから離脱した場所に、またもどってきたようです。
パティオ(中庭)には、噴水から生まれ変わった木がさわさわと風に揺れています。お茶の時間を過ごした、なつかしい椅子とテーブルも見えました。
「やれやれ、なんとか間に合ったようです」
かたわらの梢で、ほとほと疲れたというように、グノモンが言いました。
「じゃあ・・ボクたち、あの虹色の光りに飛び込めたんだね」
「はい、どうやらそのようです。
でもリトさま、のんびりしてはいられませんよ。
とりあえず、あそこに待ってる自分のカラダにもどりましょう」そう言うと、ふわりと木の梢から舞い降りて、グノモンの心は、揺り椅子に腰掛けている自分のカラダに入っていきます。
リトも、そのよこの寝椅子でひじをついている、イルカの姿にすべり込みました。
ひさしぶりに入ると、肉体というのは、けっこう不自由なものです。
やけに重くて、違和感がありました。グノモンはさっきから、しきりに羽をばたつかせています。リトも目をパチクリさせたり、ヒレを動かしたりして自分のカラダに慣れる努力をつづけました。
ようやく以前の感覚がもどってきたようです。よこを見たリトは、そのときハッと気づきました。
「あれ?クプカのカラダは?・・ねえグノモン、
クプカのからだが、どこにも見当たらないよ!」「はい、クプカさまは、先に行かれたようですねー」
グノモンは、おどろいたようすもなく答えました。
「先って、いったいどこへ?」
「もちろん“あの日”でございますよ。
クプカさまは、そう叫んでおられたでしょ?
リトさま、では、わたしたちも追いかけるとしましょうか」そう言ったとたん、それぞれの椅子がふわりと浮きあがりました。リトはあわてて、おっこちないようにしがみつきます。
まもなく椅子は、透明な楕円形のカプセルに変形しました。
それはさながら、大きなシャボン玉です。ふたつのシャボン玉のなかに、リトたちはぷかぷか浮かんでいるように見えます。「いざ、あの日へ!」
かしこまった調子で、グノモンが言いました。
すると、噴水から誕生したあの木が、こんどは噴水に逆もどりをはじめたのです。ふたつのカプセルは、噴水の水の高みに運ばれて、ポコポコと上下にはずみました。
「な、なんか、くすぐったいよー」
リトは、ひっくり返りながら笑いころげています。
噴水は、とつぜん猛烈ないきおいで天高く噴き上げました。
ふたつのカプセルは、まるでロケットのように、打ち上げられたのです。
そのころ、クプカはどうしていたでしょう?
どうやらクプカも、ウミガメのカラダにもどったようです。彼のからだのまわりにも、シャボン玉のようなカプセルが見えます。
クプカは宙にうかんで、夕闇迫る浜辺を見おろしていました。
そこは、エルテミスとフラウディーテが、かつて運命の出会いをした、あの入り江です。やわらかな黄昏がしのびより、砂浜をセピア色に染めていました。
よく見ると、浜辺には大きな白い幌(ほろ)をはったテントが、しつらえられています。
その中には、王の姿が見えました。
浜辺には、家臣やたくさんの兵士たちが陣をはり、どの顔も海のかなたを見つめています。だれもが、何かをじっと待っているようです。入り江の向こうの海面に“それ”が見えると、いならぶ顔に緊張が走りました。
兵士の声に思わず立ち上がった王は、テントから浜辺に走りだし、みずから岩場のうえにかけのぼって手をかざしました。
近づくにつれ、三つのシルエットが浮かびあがってきます。
それは、エルテミスと一頭のイルカ“最初のリト”。それに、
虹色のコウラを持つウミガメ・・・“過去のクプカ”です。
兵士たちのあいだから、どよめきのような歓声があがりました。
「エルテミスのヤツ、やりおったわ!
それにしても、いったいどうやって
あのウミガメを手名づけたのだ・・・」王も目をかがやかせて、感嘆の声をもらしています。
入り江のさわぎをよそに、浜辺にしつらえられた大きなテントの奥には、果てしのない静寂がひろがっていました。
花にふちどられたベッドのうえに、フラウディーテの亡骸が置かれています。
姫のからだには、羅紗のような薄い布がかけられていました。死んでいるなんて信じられないほど、布ごしにすけて見えるフラウディーテの姿はみずみずしく、いまにも息をふきかえしそうです。
ベッドのかたわらには、目を真っ赤に泣きはらした娘が付き添っていました。それは、小間使いの娘、マイラです。マイラはひとり、フラウディーテ姫とかわした、さいごの会話を思い出していました。この一週間というもの、姫はずっと何かを思いつめているようでした。そして昨夜、フラウディーテはマイラを部屋によんで、こう言ったのです。
「マイラ、いままで身代わりになって
宮殿の外に行かせてくれて、ありがとう。
あなたがいなければ、わたしは外の世界も
ほんとうのよろこびも、何も知らないでいたでしょう」「姫さま、あらたまって、どうなさったのですか?
ここのところ、何か思いつめていらっしゃるようで
マイラは心配です・・どうか、何でも打ち明けてくださいませ」けれど姫は、しずかに微笑むばかりでした。
「マイラ、ごらんなさい。
なんて、きれいな月夜でしょう。
海と夜空を見ていると、忘れてしまった
たいせつな何かを、思い出せそうな
気がするの・・・明日の夜は、きっとみごとな満月ね」
それが、フラウディーテと交わしたさいごの言葉でした。
翌朝、なんとなく胸騒ぎがしたマイラは、早めに姫の枕元にかけつけました。
けれどそこには、すでに息絶えたフラウディーテの姿があったのです。
かたわらのテーブルには、空になった小さな瓶(びん)が残されていました。マイラは、そのカタチのかわったガラスの小瓶に見覚えがありました。それは、宮殿のなかにある美術品などを集めた部屋の、大きな陳列箱の片隅に収められていたものです。小瓶を手にとって家臣に説明していた王のことを、ハッキリ覚えています。そういえばあのとき、フラウディーテ姫も、いっしょに聞いていたはずです。たしか王は、こんなことを話していました。
「これは、はるか西方の国の霊山でのみ採取できる
特殊な植物から抽出した、じつに珍しい毒薬じゃ。
これを使えば、毒殺とはさとられずに命を奪うことができる。
まずは、はやり病で死んだようにしか見えぬそうじゃ」
『ああ、姫さま、なんてことを!』
マイラはようやく、何が起こったのかを理解しました。
フラウディーテは、その毒薬をあおって自殺したのです。そのときマイラの目に、一通の封筒が飛び込んできました。
その表書きは、“マイラへ”・・・となっています。ふるえる手で開封すると、手紙には姫の字でこんな言葉がしるされていました。
マイラ、きっとあなたが、
最初にわたしを見つけてくれると思います。つらく悲しい思いをさせて、ごめんなさい。
あなたは、わたしにとって、
この世で出会った、かけがえのないお友だちでした。だから、どうか、フラウディーテの
最後のわがままを聞いてくれませんか?わたしの死を誰かに知らせるまえに、
このガラスの小瓶を
もとあった場所に返しておいてほしいのです。
空っぽの小瓶をそのまま返しては、気づかれるでしょう。
だから、かわりに詰める粉の包みを、ここに同封しておきます。
これは、同じ色をした害のない食用の粉です。
これを詰めて陳列箱に返せば、きっと気づかれないはずです。マイラ、こんなことをお願いして、ごめんなさい。
でも、わたしが自殺したと、父上にさとられたくないのです。わたしの死は、父上を恐ろしい悲しみに突き落とすでしょう。
でもせめて、娘が自殺したという悲しみからだけは救ってあげたい。だから、マイラ、どうか協力してください。
わたしが、なぜ死を選ぶかについては、書けません。
でも、昨夜わたしがマイラに話したことは真実です。わたしは、とても幸せでした・・・ほんとうに幸せでした。
マイラ、ありがとう。こんど生まれ変わったら、
主従の関係ではなく、あなたに会いたい。愛を込めて
フラウディーテ
夕焼けの色が白い幌を染めて、テントの奥にもすべりこんできます。
布ごしにすけて見えるフラウディーテの頬も、心なしかバラ色に染まっています。
浜辺の方が、またさわがしくなってきました。
どうやら、入り江の囲いのなかに、エルテミスとイルカの“最初のリト”、そして“過去のクプカ”が入ってきたようです。浜辺には大きな水槽が置かれ、一頭のメスのウミガメが入れられていました。
その水槽を見つめたまま、上空にはクプカが浮かんでいます。
もちろん、宙にうかぶクプカの姿は、この時代の人たちからは見えません。空と海に、現在と過去、ふたりのクプカがそろっているのです。
それにしても、海にいる過去のクプカは、ずいぶんと小さく見えました。それだけ“ふたりのクプカ”のあいだには、長い長い歳月が、横たわっているということでしょう。
突然、空にちいさな裂け目が生まれました。ふたつの大きなシャボン玉が、いきおいよく飛び出したのはそのときです。それは、リトとグノモンでした。
あまりの衝撃に、シャボン玉のなかのリトはひっくり返っています。
グノモンも、まだすこし、目をまわしているようです。
ある一点にむかって、すべてが動きはじめました。
空には、クプカとリトとグノモン。
海には、むかしのクプカと、最初のリト、
それにエルテミスもいます。
浜辺には王が・・・テントの奥には、
もの言わぬフラウディーテも横たわっていました。
昼間の残照をゆらめかせて、美しい日没がはじまります。
太陽は水平線近くまで降りてくると、
ひととき空を真っ赤に染めあげました。天使の羽のような潮風が、
ほそい弦のようなさざ波をつまびいて、金色の詩を、奏ではじめます。