クプカのにじ
文と絵・むらた あけみ
第六章 むらさき色の霧
真っ赤な太陽が、昼間の物語をすっかり語り終えて、水平線におやすみのキスをすると、海はひたひたと身をふるわせて、黄金色(こがねいろ)にきらめきはじめました。太陽と海がひとつに溶け合う、一日の終わりの、いちばん美しい時間です。エルテミスを乗せた船のあとを、一頭のイルカが、からだをオレンジ色から金色(こんじき)に染めかえて、どこまでもついていきます。
そのイルカを見つめながら、クプカが言いました。
「リト、よく見てごらん・・あれがおまえの会いたがっていたイルカだよ」
リトは一瞬、クプカの言葉の意味がわかりませんでした。
「いま、なんて言ったの?」
「だから、あれが“さいしょのリト”だ・・って言ったんだよ」
何十代も前の自分のご先祖さまに、突然出会ったりしたらきっと、誰だってとまどうはずです。
「あれが“さいしょのリト”、ボクのご先祖さま・・」
しばらくキョトンとしたあと、みょうになつかしいような気分に包まれて、リトは、胸の奥の方がじーんと熱くなるのを感じました。
そのころ、いのちを救われた少年エルテミスは、軍船の船底(ふなぞこ)のそまつなベッドに横たわって、眠りつづけていました。いのちを救われたことも、これから自分に訪れる運命も、まだ知りません。くり返しうちよせる眠りの波にゆられながら、ただ夢を見ていたのです。
それにしても、なんて、あどけない寝顔でしょう。昼間は、あんなに勇ましく海に身を投げたエルテミスでしたが、ほんとうは、まだこんなにも幼い子どもだったのです。クプカとリトは、すやすやと寝息をたてる、エルテミスの寝顔を見つめていました。
するとどうでしょう?
いつのまにかあたりは、色とりどりの花々が咲き乱れる、美しい宮殿の庭にかわっているではありませんか。
どうやら、エルテミスが見ている“夢のなか”に迷い込んだようです。
あれ?・・あそこをかけて行くのは、エルテミスではありませんか。いたずらをして、召し使いたちに追いかけられているようです。あ、とうとうつかまりました。父王から、おこごとをもらっています。こんどは、兄さんたちと剣術のけいこをはじめましたよ。むてっぽうがすぎて、すり傷をつくってしまったようです。母君に、傷の手当てをしてもらっています。やわらかなヒザに甘えて・・ほら、まるで赤ちゃんのよう。
おや、こんどはまた、ちょっと顔つきがちがいます。庭の大きな木の下で、泣きじゃくる小さな妹をあやしているようです。エルテミスがたのしい物語を話しはじめると、あんなに泣いていた妹も、キャッキャと愛らしい笑い声をたてはじめました。幼いふたりの金色のまき毛に、こもれびがゆれています・・。
気がつくと、クプカたちは“夢の庭”からぬけだしていました。かすかにほほえみながら、エルテミスは、まだすやすやと眠っています。
「あれが、ついこの間までの、この子の生活だったんだよ」
クプカが言いました。
おそらくそれは、エルテミスにとってあたり前の毎日だったことでしょう。けれどいまとなっては、夢がさめればアワのように消えてしまう、二度と帰らない日々になってしまったのです。
「この子、このまま、夢からさめなければいいね」
ぽつりと、リトがつぶやきました。
「生きているかぎり、眠りはさめるものだからね・・でも
目がさめるからこそ“あたらしい日”がまた、生まれるんだよ」
エルテミスのはかない夢をのせて、金色のさざ波のうえを船がすべります。
やがて、太陽が水平線のむこうにとっぷりとしずみました。それとともに、すべてのものから金色のかがやきが失われていきます。まるで舞台の幕が降りるように、夜がゆっくりと訪れたのです。
ふたたび明るくなったとき、クプカとリトは、ちがう場所にいました。
どうやら、あの宮殿の広間にもどってきたようです。
軍船の上で見たときより年老いて、ひげがすっかり白くなった王と、たくましい若者に成長したエルテミスが、向かい合っています。
エルテミスの背中に浮かんだ「海の世界」へ、リトたちがすいこまれたときと何ひとつかわらない光景が、そこにありました。ただ、なにもかもが彫刻のように、ぴたりと止まったまま動きません。まるで、一枚の絵を見ているようでした。
「あれ?なんか、時間が止まってるよ・・ねえ、クプカ」
けれど、クプカは返事もしないで、さっきからしきりに広間のカベの一部を気にしています。そこには、一枚の大きな鏡がかかっていました。みごとな彫金細工のふちどりがほどこされた、銀製のりっぱな鏡です。ふいに何か思い出したように、クプカがふり返って言いました。
「リト、どうしてエルテミスをイルカたちがたすけたのか、わかるかい?」
「えっ?」
「ほら、エルテミスが海に身を投げたときのことさ」
「ああ、そのこと・・うーん、よくわからないけど
ボクたちイルカはときどき、理由もなく
おぼれている人を助けたりすることがあるよ」「ふむ。たしかにおまえさんたちイルカときたら、信じられないくらい
おひとよしときてるからな・・しかし、それにしたってだ
あのイルカの数は、ただごとじゃなかったぞ。」そう言われてみれば、たしかに不思議です。だいたい、しばられたままあんなに長い時間、海に沈んでいたというのに、小さなエルテミスが生きていたというのも奇跡としか思えません。
そのときです。むらさき色の霧のようなものが、どこからか漂ってきました。リトはさいしょ、止まっていた時間がまた動きはじめたのかと思いました。けれど、広間を見わたしてみても、あいかわらず何もかも止まったままです。しだいに“むらさき色の霧”はひろがって、リトやクプカのからだを、すっぽりと包みはじめました。
「うーん、いいにおい・・」
むらさき色の霧は、なんともいえずいい香りがします。まるで、ひろいラベンダー畑のまんなかに、ねそべっているような気分です。それにしても、どうしたのでしょう?なんだか、急にねむくなってきました。霧は、絹のうすいベールのようになって、ふたりを包みこみました。それはまるで、ここちよい眠りをさそうしなやかなハンモックのようです。ふんわりとした、うすむらさき色の雲にのってユラユラゆられているよう・・・リトは思わず、うとうとしはじめました。むらさき色の霧の動きが、突然かわったのはそのときです。それまで、ゆらゆらとゆるやかな動きだった霧が、突然、獲物(えもの)をとらえる瞬間のヒョウのように変わったかと思うと、すばやくふたりのからだをからめり、あっという間に連れ去ってしまいました。
連れ去るって、いったいどこへ?
それは、あの大きな鏡のなかです。
水銀のように
トロリとやわらかくなった鏡の表面は
神話にでてくる怪鳥のような姿になって
ふたりのからだを、ごくごくとのみほしてしまいました。