【エッセイ】

光りの声

Written by Akemi Murata
Photo by Osamu&Akemi Murata


ひとりだけで墓参りをするのは、これが始めてだった。

父と母が永眠(ねむ)る海辺の町へ向かうため、大きなターミナル駅から停車中の電車に乗り込む。よく晴れた秋の昼さがり、平日ということもあってか車内はガラガラに空いていた。発車を待ちながら駅の構内をぼんやり眺めていたら、なつかしい記憶が心の水面にぽつりぽつり浮かび上がってくる。

南海電鉄『なんば』駅。

大阪ミナミの玄関口にあたるこの駅は、堺で生まれ育った私にとって、なじみ深い駅だ。結婚して大阪を離れるまで、映画好きの父と二人、幾度この駅をつかって道頓堀や千日前あたりの映画館に通ったことだろう。中学生くらいになれば「父親と映画を観に行くなんて」と敬遠するのが普通らしいが、なぜか何歳になっても、私は父と映画を観に行く習慣をやめなかった。もちろん、友だちと一緒に行ったこともあるし、年頃になれば人並みに、デートで映画館に行った“心ときめく思い出”もある。

それでも『映画を観る』という行為にのぞむ場合、やはり一番ふさわしい相棒は、父だった。元来、無口な人だったから、一緒に行っても観賞後にさして為になる話しとか、面白いことを言ってくれるわけでもない。それでも、映画館の木戸をくぐり父の隣りにちょこんと座って、厚ぼったい赤い緞帳(どんちょう)の向こうに、これから広がるであろう夢の世界をわくわくしながら待つあの“ひととき”は、いまもオルゴールの小箱のふたをそっと開ける瞬間のように愛おしく胸の奥のふかいところに眠っている。

館内が暗くなるまでの間、昔はよく売り子さんがポップコーンやお菓子といったものを、座席まで売りに来たものだ。中でも、映画館でだけ売っているアイスクリームの味は、忘れられない。しんなりとした食感のビスケットでサンドしたバニラアイスだったが、ひとつひとつ銀紙で包装してあるのを買ってもらってほおばるのもまた、父と行く映画館での楽しみのひとつだった。

それにしても父とは、いろんな映画を観た。

日本映画も、黒澤 明の監督作品などは、ほとんど一緒に観たけれど、洋画ファンだった父とは、路地裏のような所にひっそりあった小さな名画座などで、リバイバル上映されている往年の名作をたくさん観たことが懐かしい。『モロッコ』『カサブランカ』『ローマの休日』といった白黒映画から、壮大な『アラビアのロレンス』『風と共に去りぬ』といった映画史に残る名作、ヒッチコックの初期の作品群や抱腹絶倒のチャップリン映画など・・いずれもビデオではなく映画館の暗闇で、本物のフィルムの色あいとシネマの薫りに浸りながら味わえたことは、何という幸運だったのだろう。それは父に感謝したいことだが、いつもいつも、そんな傑作ばかり観せてもらっていたわけでもない。父の映画の好みはおおらかだったのか、ひどい三文映画や、怖くて眠れなくなるような恐怖映画なども時にはあった。今から思うと

「よくもまあ、あんな映画を子どもに観せたよね〜、お父さん」

と、思わず文句のひとつも言いたくなる作品もあったけれど、それもまた満更、悪くなかったのかもしれない。子供の心はふわふわで、何でも吸い込む穴がいっぱい開いた、海綿みたいなものだ。先入観も予備知識もないまま、ありとあらゆる作品を浴びるように観ながら、どこかで、ものの本質は感じ取ったりもする。少なくとも我が家には『子どもだからディズニー映画か、怪獣映画でも観せておこう』的な発想はまるでなかった。ま、暢気な父のことだから、おそらくは単にたまの休日、自分の観たい映画を観に出かけていて、そこにたまたま「つれてって」と腕から離れない娘もくっついて来ていただけなのかもしれないが。

あれこれ思い出していたら、和歌山方面に向け電車はすべり出していた。
これから向かう霊園は、父と母が生前に見つけ購入したものだ。のんびり屋の父が

「お墓なんか、あわてて買わんかて、ええがな」

と言っても、思い立ったらすぐ行動しないと気がすまないタチだった母にせっつかれ、
二人で関西いたる所の霊園を、あちこち訪ね歩いてやっと、決めたのだと言う。

母は生前、怪談話のような怖い話しを聞くと「やめて、やめて!」
とあわてて耳をふさぐほど恐がりだった。おまけに人一倍、淋しがり屋だったから

「くらーい、日本風のじめじめしたお墓に入るのは、いややわ」

とよく話していて、『ピクニックができる明るいお墓』というのが、母にとっての良いお墓の条件だった。その母も、お墓を購入した数年後に、持病の糖尿病から合併症を引き起こし病状が急変して、他界した。その後、大阪に帰省する度、私は父と二人でいつも母の墓参りをしていたから、この電車にも父と二人、よく乗ったものだ。

家が建て混んだ町中を通り過ぎ、関西国際空港にほど近い辺りまで来ると、進行方向右手に海が見えはじめる。窓から海が見えると、人はやはり眺めたくなるものだ。そんな思いで車窓を見ていたら、父があの頃ここを通る度『えんぴつビル』と勝手に名づけて呼んでいた一本の、細長い背の高いビルが見えてきた。空港に隣接するホテルか何かだろうか?ガランと空いた車両の隣りの座席に、いまもあの日の父が一緒に乗っているような気がした。


父と母が眠る霊園は、和歌山にほど近い『みさき公園』駅から、墓参り専用の定期バスで10分ほどのところにある。

『ピクニックができる明るいお墓』を探し求め、やっと母が気に入ったと言うだけあって、○○メモリアルパークと言う名が付いた霊園は、公園のように明るい。ゲートから広い苑内につづく沿道には、みごとな桜並木が長く伸びていて、春には、花見がてらに訪れる人も多いらしい。墓石も、背の低い洋風のカタチで統一されていて、いわゆる墓ごとの塀や仕切りもなく、緑の芝生に平等の区画で整然と並んでいるから、空もひろい。

何より、ここに来ていちばん救われるのは霊園のどこからも、眼下に広がる“海”が見えることだろう。

母のあと、三年後に父も他界してからは、墓参りに訪れる時はいつも、夫か兄が一緒だった。
たまたま今回は、夫が仕事の都合で来れなくて、私ひとり大阪に途中下車しての墓参りとなったわけだ。

「来たよ」

ピクニック好きの母が、準備してくれたような秋晴れの下、そうつぶやいて手を合わせる。

倉敷の夫の実家からの帰り道だったから、バックの中には、夫の母が私の墓参りのために持たせてくれた“お供えセット”も入っている。それを取り出し包みを開くと、お菓子や、供えやすいように小さな密閉容器に詰めた日本茶、お線香、ろうそく、100円ライターまで詰めてあった。義母(はは)のやさしい心づかいが、うれしい。まずは、手桶(ておけ)に水をくんできて、墓に何度もかけてやる。乾いた墓石に水をかけると両親が

「あ、きもちいい...」

とよろこんでいるように感じるのは、生きている者の勝手な自己満足だろう。
それでも、何度も何度も水をかけ、こすらずにはいられなかった。

途中の休憩所で買ったお花を供え、お線香とろうそくを上げ、もういちど手を合わせると突然、涙があふれて止まらなくなった。悲しみという感情よりも、お墓に来れたという明るい心持ちで、さっきまでお墓を洗ったりお供え物をしたりしていたから、予期せぬ自分の涙にとまどいつつも、お盆でもお彼岸でもない季節はずれの平日の墓地に、人影がないことを幸いに、涙がとまるまで泣いていた。

それにしても、なんだか不思議な涙だった。まるで洗われているような涙。
さっきお墓に水をかけ洗ったお返しに、父と母が、涙で私の心を洗ってくれたのかもしれない。

すっかり泣いたら、何だか気持ちが軽くなった。

母が好きだった、ピクニックをするとしよう。バックの中から大きめのスカーフをとりだしお墓の前の芝生にぱっと広げる。最近は、カラスが荒らすからとお墓に食べ物は残せない。バックから取り出した缶コーヒーを開け、お供えのお菓子をつまみながら、父や母とお茶にした。

母が亡くなって最初の墓参りの時に、手を合わせる私の傍らで、ぽつりとつぶやいた父の言葉をふと、思い出した。

「そやから、墓なんかあわてて買うもんやないて、言うたんや」


一時間あまりお墓のまえで過ごしたあと・・送迎バスの時間に追い立てられるように霊園を後にした。

みさき公園の駅にバスが着くと、駅前には、遠足の小学生たちが黄色い帽子をかぶって並んでいる。みさき公園は、関西でも有名な古い遊園地。私や兄も、子どもの頃は学校から遠足で・・あるいは休みの日に、両親に手を引かれ何度も訪れたものだ。母の手作りのお弁当は、本当に美味しかった。あの頃、永遠につづくと思っていた家族4人の暮らしも今となれば遠く、まるで夢のように過ぎていった。

ひょっとしたら、母がこの地に霊園を選んだ理由のひとつには、ここが家族の楽しい思い出につながっていることも、多少はあったのかもしれない。あるいは母のことだから、子どもや孫たちが墓参りのついでに、あるいは遊園地のついでに、この駅に降り立ってくれることを祈ったのかもしれない。

そんなことを思いながら遊園地の方を振り返ると、秋の青空をバックに、大きな観覧車が回っていた。
きっと、たくさんの笑顔を乗せて回っているのだろう。

駅の周りには、きいろいセイタカアワダチソウが、揺れている。
小学生の黄色い帽子たちと、その草花の黄色がダブって見えてきた。

いのちがキラキラ輝きながら、くるくる回ってる

そう思ったとき、光りのように父の声が空から降ってくる・・そんな気がした。

「ほがらかに暮らしや」

いつも別れ際に、父が口ぐせのように言っていた言葉だ。


ほがらかに

それは単に、おもしろ可笑しく楽しく暮らしなさいということじゃない。昔は気づかなかったけれど、この短い言葉の中には、もっと深い、いろんな意味が詰まっている様な気がする。だって自分や他人(ひと)にうそをついたり、心のどっかがねじ曲がっていたら人間、心底ほがらかにはなれないから・・“ほがらかに”暮らすことは、そんなに容易なことじゃない。

青くすんだ空のした、父から届いた“光りの声”を抱きしめ、私はその駅をあとにした。

-2003年秋-



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