【エッセイ】

車内のゲーム

文・ Akemi Murata


<Photo by Y.Horikoshi>


 帰宅ラッシュにぶつからないよう早めに用事をすませたつもりだったが、都心から郊外に向かう帰りの電車はすでに混みはじめていた。とりあえず吊革につかまり車窓に目をやる。びっしり隙間なく林立する東京の町並みも、西日がビルや家々の窓に反射する時間帯は、やけに美しい。あの窓のひとつひとつに人がうごめき、とりどりの人生を点滅させているのだろうか・・・電車のスピードが上がるにつれ、点々ときらめいていた窓たちはいつしか光りの川になった。

 “ピコピコ、チャ-ララー”突然、耳につく独特のゲーム音が真下からこだました。

 見ると、席に腰かけている子供が、ポケットボーイで遊びはじめたらしい。子供の隣りに座っている母親らしき女性は、買い物に疲れたのかデパートの紙袋をいくつも抱え込んだまま眠っている。街頭、店内、駅・・携帯電話の着メロをはじめとする、この手の電子音に都会はいつもあふれている。どうにも私はこの音質がニガテなのだが、そんな体質の人間が居ることなどお構いなしに、音量の水かさは日ごとに増して行く。この国はいつか騒音の水底(みなそこ)に沈んでしまうんじゃないか....とさえ思えてくるが、子供が電車の中で退屈するのは仕方ないだろう。車内、子供、ゲーム・・そう連想したら、ふいに幼い日の記憶があふれ出してきた。

 目を閉じると、遠く懐かしい車内の光景がよみがえる。
 思い出をたどるうちに、耳ざわりなゲーム音も心なしか遠ざかっていった。


 あの頃、私は『電車でのお出かけ』が大好きだった。明るい時間帯なら靴をぬいで座席にヒザをつき、窓枠に手を置いて飛び去る風景を楽しむことが出来る。今も時折、小さな子供がそうしている光景に電車の中で出会うが、あの頃は今のように冷暖房完備の車両など少なかったから、暖かい季節なら雨が降っていない限り、少しくらい窓をあけても叱られることはなかった。まあ、窓枠の汚れで手や白いブラウスの袖口が真っ黒になることはあったが、飛び去っていく風景を見ながら、ほほに風をうけるあの爽快感は忘れられない。

 「窓から首を出してはダメ」そう親に言われながらも、時にはこっそり出してみたものだ。顔を出して進行方向を見れば、自分に向かって放射状に飛びさる風景が見えたし、生き物のように光る線路や、カーブにさしかかるとヘビのように体をくねらす車両も面白かった。とはいえ遠い親戚の家に遊びに行く時や、ちょっとした家族旅行に出かけるとなると、乗車時間もぐんと長くなる。そうそう外ばかり眺めてもいられないから退屈を紛らわす手段としてリュックやバックに、お気に入りの絵本やオモチャ、お菓子などを携帯したが、それでも退屈したらどうするか?その場合、わが家では“父親の出番”となった。

 「ね、アレやって...」

 私がせがむと、父はおもむろに読んでいた文庫本にしおりを挟み閉じてポケットにしまう。それからゆっくり車内を上下左右くまなく見回したあと、コホンとひとつ咳払いをして、うやうやしく告げたものだ。

 「さて問題です。この電車の中にゾウが1頭います。ゾウはどこにいるでしょう?」

“この電車の中にゲーム”のはじまりだ。

 「ゾウ!?、ぞうさんがいるの?ぞうさん...ぞうさん...」

 私はもうワクワクしながら、せいいっぱい首をのばしたり足下をのぞき込んだりしながら、車両の中を眺めまわす。席から立って歩き回るのは違反だから、とにかく席から見える範囲を目で探すのだが、父の言うゾウを見つけるまで、私の頭の中には、ピンク色のゾウやら、ディズニーのダンボまで.....ありとあらゆるゾウがひしめき飛びはね、いなないたものだ。もちろん、本物のゾウが電車の中に居るわけはない。絵かアップリケ・・そういったたぐいのモノを探すゲームなのだが、それは電車の中吊り広告のほんのスミッコに隠れている場合もあるし、時には乗客の身につけている洋服やくつ、バックなど、持ち物に小さくプリントされている場合もある。

 限られた空間だし、座席から見える範囲ならすぐに見つかるだろう?・・そう思う人もいるかもしれない。ところがどっこい、父のゲームはそう甘くなかった。子供だからと言ってすぐ見つけられるような簡単な出題はしないし、中吊り広告がいっぱい貼られた電車や、人がたくさん乗り込んでいる電車になればなるほど、細心の注意と観察力が必要になる。今から思うと、このゲームは「ものを見る目、観察する目」を養うのにもってこいの教育的意味もあった気がするが、父がそこまで考えて思いついたかどうかは、はなはだ怪しい。ただ少なくとも、このゲームが出来るから『電車でのお出かけ』が大好きになったと言う一面は確かにあった。

 ゾウ、ヒマワリ...etc、探索に苦労すればするほど、発見した時のよろこびは大きい。思わず歓声をあげそうになるが、その気持ちをグッとこらえて父の耳もとで答えを告げる。メガネの奧の父の目が「当たり」と合図をしてくれた時には、何とも誇らしく胸がはずんだものだ。出来るだけ小さな声でやりとりしていても、すぐ隣りの席の人や、前で吊革を持っている人には、そんな親子のやりとりが時折、聞こえてしまうこともあった。けれど、みんな優しいまなざしでニコニコしながら眺めていてくれた気がする。中には、私たちと一緒に車両の中を目で探しはじめる大人たちまでいた。つくづく、のんびりした時代だったと思う。

 問題は交互に出し合うことにしていた。探し当てるのも面白かったが、自分で出題したモノを父が見つけ出すまでの、あのドキドキ感もまた“この電車の中にゲーム”の醍醐味だ。特別なルールは別にないが、出題には席から見える範囲のモノを選ぶこと。それと、車両の中にあまりにもたくさん見つかり過ぎる(メガネや帽子といった)たぐいのモノはさけた方がイイ。ただし「赤い傘」とか「水玉模様の帽子」....といったように限定すれば、それでもかまわない。

 あと大事なのは、問題を決める時に敵にさとられないこと。視線の配り方には注意を払い、コレにしようと選んでもけっして顔に出してはいけない。あくまでもそしらぬ顔であらぬ方角をわざと眺めたりしたあと、出題するのがポイントだ。とはいえ敵もさるもの。役者は父の方がいつも一枚上だった。わざと一点に興味をそそられたフリをして眉をピクッとあげたりするから、実にまぎらわしい。若い頃の父は、どこか無声映画のハロルド・ロイドに雰囲気が似ていたが、あのとぼけた天然のポーカーフェースには、何度もしてやられたものだ。「見かけの表情や外見に惑わされるな」そんな教訓も、ひょっとしたらあのゲームには盛り込まれていたのかもしれない。

 それにしても幼い頃に見たものなのに、当時の中吊り広告の絵柄やデザイン、人々が着ていたファッションまで、何となく覚えているから不思議だ。つぎからつぎへ・・・連鎖反応を起こすように、記憶のトビラがひとりでに開き、遠い日の匂いや感触、五感までもがザワザワめざめはじめる。たとえば夏の日、海水浴に向かう電車に乗っていると、開け放たれた窓から潮の香りや夏草の匂いが風とともに車内に流れ込み、心地よかったこと。風に飛ばされないよう手で押さえた麦わら帽子や、ぱたぱた風にはためく木綿のワンピース・・・普段はすっかり忘れてしまっていることが、まるで川面にはねる水しぶきのようにキラキラ浮かびあがってくる。


 どれくらい子供時代の電車の中にすべり込み、記憶の森を散策しただろう。

 気がつくと、現実の電車は高架橋の上を走っていた。高いところから眺めれば、東京の空もひろい。夏にはプールでにぎわう遊園地の大観覧車が夕陽に染まりながら回っている。もういちどゲームボーイに興じている子供に目をやると、ピコピコという音響と共に親指を小刻みに震わせている。私にとっては耳ざわりなこの音も、この子にとっては心地よい調べなのだろう。いつか大人になった時、ゲームの電子音が奏でるメロディーに遠い子供時代を思い出し、彼は郷愁さえ感じるかもしれない。ただ、その子供時代の光景のなかに親の姿はあるのだろうか....そんな想いも少しよぎった。


 何だか“この電車の中にゲーム”を、無性に今やってみたくなった。いざ車内を見渡すと、中吊り広告の表情も昔とはずいぶん様子がちがう。あの頃に比べると子供がよろこぶような絵柄も少なく、かわりに強い色調の文字ばかりが並んでいる気がする。けれどそれは、自分が大人になって字ばかり目に飛び込んで来るせいもあるだろう。そのかわり乗客を見ると、携帯電話のストラップやバックに、子供っぽいキャラクターグッズをいっぱいぶら下げている大人たちが増えた。これなら結構、出題する『モノ選び』には事欠かない。あれこれ検討して、ようやくコレと見定めた。

 あの日の父のようにコホンとひとつ咳払い。
 それからおもむろに、心の中でつぶやいてみよう。

『この電車の中に・・・』

 いくら待っても回答は聞こえてこない。

 ただ車窓にひろがる夕焼け空のひとすみで、父の眼鏡のすみっこが

キラリ光った・・・そんな気がする。

 

【END】



Comment


この世にある面白いもの、どこかに隠れているささいなモノ
発見する喜びを、教えてくれたのは父でした。

無口な人でしたが、年をとって亡くなる間際まで
いろんなものを面白がり、しみじみ味わう目を持った
ある意味での『達人』だった気がします。

批判的にものごとを観察する目ではなく
どんなものにも楽しさやステキさは隠れてる
それを見つけだそう....とする視線。

年を重ねるほどに、人はついつい
物事のイヤなところばかり見つけてしまいますが
何とか父を見習おう・・・と思います。

それが、父から出された
『最後のゲーム』かも、しれないから。

Akemi

★このページの冒頭に置いている写真は兄(Y.Horikoshi)が撮影したものです。

<その他の↓父に贈る作品>

・詩「悠々と」
・詩「降りつもった羽根」
・エッセイ「海からの風」
・短歌「化野の雨(あだしののあめ)」


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