クプカのにじ
文と絵・むらた あけみ
第16章 鎧 - yoroi -
たち込めていた“むらさき色の霧”が、すこしずつ晴れてきました。
めざす方向に、水面のようなゆらめきが見えます。三つの心は光りの矢のように、“ゆらめき”を突き抜けました。
ちがう環境に飛び込むと、心はいつも、とまどうものです。
心のスクリーンには、しばらく何も映りません。けれど、好奇心のつよいリトは環境になれるのも早いのでしょう。すぐに見覚えのある“大鏡”を見つけだしました。大鏡の表面は、石を投げ込まれた水面のようにゆらゆらと波うっています。この鏡の向こう側から、三つの心は飛び込んできたようです。さっき突き抜けた“ゆらめき”は、大鏡の裏側だったのかもしれません。
あぶりだしの絵のように、なつかしい光景が浮かび上がってきました。
年老いた王と、その前にひざまずくエルテミス、そして居並ぶ家臣たちの姿が見えます。
まぎれもなくここは、あの日の“宮殿の広間”です。いままでに出会ったいくつかの光景が、とびちる光りのようにリトの心をかけぬけました。
“最初のリト”ってどんなイルカだろう?
おもえば、そんな小さなリトの疑問から、この“はるかな旅”は、はじまったのです。ご先祖さまの“最初のリト”に会ってみたい・・クプカにねだって、虹色のコウラにしがみついた満月の夜が、まるで遠い夢のように思えます。あれから、いったいどれほどの時間と空間を、とび超えてきたことでしょう。
リトは、時間旅行のはじめに遭遇した“過去のクプカ”を思い出しました。過去のクプカはあのとき、たしかこの宮殿がそびえる王国に向かって、海を泳いでいたはずです。
宮殿の広間には、悲しみにくれるひとりの年老いた王がいました。王はその朝、最愛のひとり娘を、はやり病で亡くしたばかりだったのです。地獄の底から絞り出したような王の声が、いまも聞こえてくるようです。
「このままフラウディーテを死なせはしない」
王は、姫のたましいが完全に黄泉(よみ)の国へ旅立つまえに“にじ色のウミガメ”を見つけだせと、家臣たちに命じていました。“にじ色のウミガメ”・・それはもちろん、クプカのことです。
リトがそんなことを思い出していると、かたわらでクプカの声がしました。
「あのときのまま、何もかわっていない」
たしかに目のまえの光景は、ふたりが大鏡の向こうへ連れ去られたときのまま止まっています。王もエルテミスも、まるで彫像のようでした。
「それでは、そろそろ、スタートさせましょうか?」
そう言うと、グノモンの心が、スタートボタンのように光りました。
とたんに、止まっていた時間が、せきを切ったように流れだします。
広間の静寂をやぶって、王の声がひびきました。
「エルテミス、そちに聞きたいことがある。
“にじ色のウミガメ”についてだ・・」王とエルテミス・・このふたりにまつわるさまざまな出来事や光景が、
リトの心に、よみがえりました。軍船のうえで銀色の鎧(よろい)に身をまとい、
敵国の王子エルテミスを処刑せよと命じていた王。処刑の瞬間、身をひるがえして海に身を投げた幼いエルテミス。
その命を救って海面にせり上がったおびただしい数のイルカたち。
エルテミスの生存を確かめ甲板で安堵していた、王の顔も浮かんできます。そういえばあのとき、リトは会いたかったイルカにもようやく出会えたのです。
幸せだった頃の夢を見ながら眠る、少年エルテミスを乗せた軍船のあとを、どこまでもついて行く一頭のイルカ・・白い航跡と、夕陽に染まってオレンジ色にかがやいていた“最初のリト”の姿が、いまも心にやきついています。
そのときエルテミスの声が、回想にふけっていたリトをよびもどしました。
「王さま、申し上げます。
入り江近くの海面に“まるい虹”が浮かんでいるのを
見かけたのは、数日まえの夜のことでした。
月の明るい夜とはいえ、虹が夜の海に浮かぶはずはありません。
しずかに泳いで近づいてみると、まるい虹に見えたものは、
ウミガメのコウラだとわかりました」ここまでエルテミスが話すと、王がたずねました。
「そのウミガメは、いったいそこで何をしていたのだ?」
「はい、どうやら、すこしまえに捕獲した、
もう一頭のウミガメに会いに来ていたようです。
入り江の柵(さく)ごしに、二頭のウミガメは、
ひたいをすり寄せるようにしていました」とつぜん、クプカの心がさざ波のようにふるえだしました。
リトの心にまで、その気配がひたひたと伝わってくるほどです。つづきを話せと王が手ぶりで、エルテミスをうながしています。
「捕獲して入り江に入れたウミガメは雌(メス)でしたから、
にじ色のウミガメは、つがいの雄(オス)だったのかもしれません。
しばらくすると、にじ色のウミガメは
柵にカラダをぶつけはじめました。
体当たりして柵をこわそうとしているようです。
頑丈でとがった鋼鉄の柵にぶつかるたび、
にじ色のウミガメのカラダからは血が流れだしました。
それでもウミガメは、いっこうにあきらめようとしません。
くりかえし、くりかえし体当たりをつづけました」「それで、そちは放っておいたのか?
なぜ、すぐ捕獲しなかったのだ!」王の言葉に、エルテミスは言葉をつづけました。
「もちろん、捕獲しようと思いました。
ところが、わたしが柵の向こう側へ移ろうとしたとき、
入り江のなかのイルカが、とつぜん甲高い声をあげたのです。
それはまるで、向こう側にいるにじ色のウミガメに、
危険を知らせているようでした。
声に気がついたにじ色のウミガメは、わたしと目を合わせたあと、
アッという間に海に潜って姿を消してしまったのです」王はいぶかしげに、なおもエルテミスを問い詰めました。
「そちほどの泳ぎの達人が、それくらいのことで
ウミガメをとり逃がしたとでも言うのか!」けれど、エルテミスは「申し訳ありません」と答えるばかりです。
『あっ、エルテミスは、何か隠してる・・』
とっさに、そんなひらめきが、リトの心をかけぬけました。
肉体を離れて心だけになると、ほかの心に対して敏感になるのです。かたわらで、クプカの声がしました。
「あのとき、わたしは血だらけになってすっかり弱っていた。
もしエルテミスがその気になれば、
きっとわたしを捕らえるのはたやすかっただろう。
だがエルテミスは見逃してくれた・・・それは、
“最初のリト”が、エルテミスにたのんでくれたからなんだ」「最初のリトがたのんだ?
エルテミスには、イルカの言葉がわかったの?」リトがたずねると、グノモンの心がとつぜんピカッと光りました。
どうやら、また広間の時間が止まったようです。
王やエルテミスたちが、ふたたび彫像のように動かなくなりました。「では、ちょっと一時停止にして、ご説明いたしましょう」
グノモンの心がゆっくりと語りはじめました。その内容はこうです。
エルテミスとフラウディーテの肉体には、あの大洪水以後の人間には見られない、いくつかの変わった特徴がありました。それは“あの大陸”の人たちがもっていた特質でもあったのです。小惑星αが蒔いて逝った“奇跡の種”に、ソラの“たましいの祈り”が作用してよみがえったエルテミスとフラウディーテのからだには、大陸の人々の特徴も備わっていたようです。では、その特徴とはいったい、どんなものだったのでしょう?
「彼らは、海人(かいじん)だったのです」・・そう、グノモンは答えました。
海に生きる哺乳類(クジラやイルカたち)がいるように、陸に生きる“限りなくイルカに近い人類”が存在したとしても不思議はないと、グノモンは説明しました。つまり、あの大陸に暮らしていた人々には、人間らしさの他に、潜水や泳ぎに適し、海に順応できる体質も備わっていたと言うのです。それはまさに、海人と呼ぶにふさわしいものでした。
とは言っても、どうやらエラ呼吸する半魚人(はんぎょじん)というわけではなさそうです。魚よりも、おなじ哺乳類のイルカに似た点がいくつかありました。たとえば、呼吸をするとき、ふだん人間は肺の容量の一割くらいしか空気を出し入れできませんが、彼らは海の中ではイルカとおなじように、肺の中の空気の八割から九割近くを入れ替えることができました。
また、肺の空気を圧縮したり、安定した気圧で気管へ押し出したりする特殊な括約筋(かつやくきん)、いわば弁のようなものも、イルカとおなじように気管支に備えていたのです。
その他にも、酸素の消費を節約するのに役立つミオグロビンという、ヘモグロビンによく似た色素タンパク質を筋肉のなかに持っていたり、暗い海のなかに潜ったとき夜行性の動物のようによく見える特殊な目や、すぐれた聴覚、海中のようすを探るためのエコーロケーション(反響定位)という発達したソナー(一種の探知器のようなもの)まで、イルカとおなじように備えていました。
「ですから、イルカ語もすこしは理解できたはずです」
グノモンは説明の最後に、そうつけ加えました。
“あの子には、海をとぶ翼があるの・・”
海の祭典のときに聞いた、あどけないフラウディーテの声が、
歌のように、よみがえります。
グノモンの心が光ると、砂時計の砂が落ちるように時間がまた流れはじめました。
王が、あらたまった調子で切り出します。
「エルテミス、では、本題に入ろう。
にじ色のウミガメが“不死身”(ふじみ)かどうか・・・
そちが見知ったことを、すべてありのままに話すのじゃ」“不死身”という言葉が出たとたん、家臣たちの間からどよめきがわき起こりました。エルテミスが話しはじめると、広間はまた水をうったようにしずまり返ります。
「その翌日のことです。
定例の海洋調査のため、わたしは船に乗り込んで沖に出ました。
すると、昨夜のにじ色のウミガメに、また遭遇したのです。
そのことについては、おそらく船に同乗していた兵士の方々から、
すでにお耳に届いていることと存じます・・」黙って王がうなずくと、エルテミスはつづけました。
「にじ色のウミガメはたった一夜ですっかり元気になっていました。
前夜、あんなにコウラや全身に出来ていた傷が跡形もありません。
しかも顔を覚えているのか、船上にわたしを見つけると、
何か言いたげに近づいてきたのです。
ところがそのとき、船に同乗していた兵士たちが、
ふいに矢やモリをウミガメに向かって放ちました。
おそらく、珍しい“にじ色のコウラ”を持ち帰れば、
王さまがよろこばれると思ったのでしょう。
ついに一本の鋭いモリが、ウミガメの額に命中しました。
ウミガメの額は裂け、血が噴き出しました。
あのようすを見れば、誰だってウミガメの死を確信したはずです。
ウミガメはもがき苦しんだあと、ピクリとも動かなくなりました」「それから、どうした?」
エルテミスが苦しそうに黙ると、王が畳み込むようにたずねました。
「わたしは、絶命したウミガメを船に引きあげるよう命じられ、
海にとび込みました。まわりはウミガメの血で真っ赤です。
ところが、もう少しでウミガメに手が届きそうになったとき、
何か目に見えないエネルギーのようなものに、
激しく押し戻されたのです。なんとか船にしがみつきながら
ふり返ると、よく晴れた日なのに、ウミガメのまわりだけ、
なぜか波が荒れはじめています。
しかも、信じられないような光景が目に飛び込んできたのです」ここまで話すと、エルテミスは言葉を切りました。
どうやらこのエルテミスの話しに、隠し事はなさそうです。
リトの心のバロメーターが、正常であることを示しています。やがて深く息を吸うと、エルテミスはまた話しはじめました。
「ウミガメのコウラからにじ色の光りが四方八方に出たかと思うと、
やがて、大きな光りの玉になったのです。そして光りの玉は、
にじ色のウミガメをすっぽりと包み込みました。
それはさながら、光りの鎧(よろい)です。
その強烈なパワーは、近づく者を寄せ付けません。
兵士たちの矢やモリも、あっけなく跳ね返されてしまいました。
海に潜って海中から近づこうとしても、おなじです。
こうなっては、光りが消えるまで船上で待つしかないと、
わたしは船にもどりました。ところが、海は荒れる一方です。
船員たちは“海のたたりにちがいない”と騒ぎはじめ、
いのちからがら沈没をまぬがれた船は、その場を離れました。不思議なことに、光りの玉から遠く離れると、
嵐はうそのようにピタリとおさまりました。ふりかえると、
光りの玉のあたりの海上だけが、いまも荒れ狂っています
ひと所で吹き荒れる嵐・・・それは何とも奇妙な光景でした」家臣たちのなかから、ほーっというため息やざわめきがこぼれました。
王が、なおもエルテミスにたずねます。「まだ、肝心なことを聞いておらぬぞ。
あのにじ色のウミガメは死んだのか?どうなんだ!」エルテミスはすこし沈黙したあと、覚悟を決めたように答えました。
「いいえ、死んではおりません。
そのつぎの日も、沖合いで姿を見たものがおります。
にじ色のウミガメを目撃した漁師の話しによると、
額にもどこにも傷ひとつない、キレイな姿だったということです」
王の目に、ひとすじの希望がかがやきはじめました。
深く悲しみを刻み込んでいた顔も、心なしか若返ったように見えます。王は天を仰ぎ、目を閉じて自分の両手を強く握り合わせたあと、王座から立ちあがりました。そしてエルテミスのそばにくると、ひざまずくエルテミスの肩に手を置いて、威厳に満ちた声で言ったのです。
「エルテミス、そちに命ずる。
入り江に捕らえたウミガメをおとりにして、
そのにじ色のウミガメをおびき寄せるのじゃ。
そして生け捕りにしろ!ただし、深手を負わせてはならぬぞ。
また“光りの鎧”が現れたら、手も足も出せなくなるからな」それから王は、エルテミスの耳もとで言い添えました。
「まだ公にしていないことだが・・今朝、
娘のフラウディーテが、とつぜんの病で亡くなった。
だから“にじ色のウミガメ”がどうしても必用なのじゃ。
その不死身のパワーを使えば、まだ間に合うかもしれぬ・・いや、
何がなんでも、フラウディーテを生き返らせずにおくものか!」
天の雷(いかずち)のように、
王の言葉はエルテミスのうえにもとどろきました。