クプカのにじ
文と絵・むらた あけみ
第17章 嘘 - uso -
きらめく青い海が、宮殿の窓のむこうにひろがっています。
まばゆいばかりの陽光と“死”は、あまりにも不似合いに思えました。けれど、死はどんな光りのなかにも、ひそんでいるものなのです。
カタコトと時の調べを刻みながら、生と死は、あたかも縦糸と横糸のように、からみ合い寄りそって、たくさんの物語を紡ぎつづけます。クプカの心は、いままでに立ち合ったいくつもの死を思い出していました。いくつもの誕生やいのちの輝きも、心の水面にさざ波をたてています。
そのかたわらで、リトの心はしんぱいそうにエルテミスを見守っていました。
“フラウディーテの死”を告げられた彼のことが、とても気がかりなのです。ところが、顔をあげたエルテミスの表情は、意外にもおだやかなものでした。
ひとり娘を亡くし悲嘆にくれている王のようすに、何ともいえない、とまどいのような表情を浮かべた以外は、動揺を示すような波動も伝わってきません。にじ色のコウラのウミガメを捕獲する準備にかかるため、エルテミスは立ち上がりました。
その背中に、王がもういちど声をかけます。
「エルテミス、この任務をみごとに成し遂げた折りには、
そちに“ほうび”を約束しよう。何かほしいものを考えておけ」片手を胸に置き会釈すると、長い絨毯のうえをエルテミスは歩き始めました。
宮殿の扉を押し開くと、まぶしい陽光と青い海のきらめきがなだれ込みます。
彼のシルエットは、あふれる光りのなかにすい込まれ、消えていきました。そのとたん、まるで舞台のどん帳が降りるように、何も見えなくなったのです。
気がつくと、三つの心は風にとびちるしずくのように暗闇のなかを飛んでいました。暗い路地に灯るランプのようなオレンジ色の光りが、ぽつんと前方に見えてきます。近づくにつれ、光りは大きくふくらんて、三つの心をすっぽりと包み込みました。
いったい、ここはどこでしょう?
さわやかな、くだものの香りが流れてきます。
しばらくすると、オレンジ色の果実が、心のスクリーンにまず映りました。
暗闇で見たランプのような灯かりは、このオレンジの実だったのでしょうか。まわりの風景が、しだいに浮かび上がってきました。
オレンジの実をたわわにつけた木が、いっぽん立っています。
ここは、入り江につづく小道の脇の草原です。砂浜がすぐ下に見えました。
朝の光りをあびて、オレンジの木は緑の葉をつやつやとそよがせています。羽をやすめるように、三つの心は、その木の梢にとまりました。
「いやー、やっぱり外は、気持ちがいいですねー」
ひなたぼっこするように、のんびりとした調子でグノモンの心がつぶやきます。
けれどリトの心は、いつになく沈んでいました。「ボク、とてもそんな気分じゃないよ。
だって、フラウディーテは死んじゃったんだよ。
あの“ソラの祈りの声”おぼえてるよね、
長い長い歳月、ひとりぼっちで祈りつづけて
やっと小惑星αが残した奇跡の種に想いが届いて、
カイの生まれかわり、エルテミスと会えたのに、
また死んじゃうなんて・・・あんまり、かわいそうだよ。それに、さっきのエルテミスの態度を見た?
フラウディーテが死んだっていうのに
眉ひとつ動かさないんなんて、ひどすぎるよ!」リトの心は、怒って赤くなったり、悲しくて青くなったりしながら言いました。
クプカの心は、ふたりの会話をよそに、ぼんやり海を眺めています。
はるか遠い思い出の岸辺を、ひとりさまよっているようです。グノモンが言いました。
「リトさま、お気持ちはよーくわかります。
ですが、これにはいささか事情がございまして」そのときです。
オレンジの香りともちがう、やさしい香りがふっとリトの心をかすめました。
木のしたの方で、白くうすい布が、ふわっと風に揺れたような気がします。どうやら、だれかが、木のしたに来たようです。
「あっ!」
その姿を見たとたん、リトは、なんとも言えない声をあげました。
木からオレンジの実をひとつだけとると、その人は、だいじそうに両の手のひらにのせました。やわらかな唇が、オレンジの表面にそっと触れます。
しなやかな白い指に包まれて、オレンジの実は、ますます輝いて見えました。「ど、どうして、
なんで、ここにフラウディーテがいるの?」ぼう然としたようにつぶやいたあと、リトはよろこびの声をあげました。
「じゃあ、死んでなかったんだね、彼女は生きてたんだ!」
けれどリトのよろこびは、グノモンの言葉にすぐ打ち消されてしまいました。
「いいえ、いまごらんいただいている光景は、
フラウディーテが亡くなる一週間まえの、朝のようすです」
フラウディーテの目には、もちろん梢にいるリトたちが見えません。
けれど、木を見上げて、彼女は夢見るように微笑みかけました。その笑顔に出会えば、氷のように冷たい心も、さらさら溶けてしまうでしょう。
まるで春の陽射しのようにあたたかで、心にしみる笑顔でした。
こもれびが、彼女の髪や頬や肩にこぼれ、チラチラ揺れています。
木を見上げたまま、フラウディーテは歌うように話しはじめました。「オレンジの木さん、おはよう。
わたしは宮殿で、いつもあなたの夢を見るのよ。
だってこの場所は、わたしにとって、
この世でいちばん美しい場所なんですもの。
エルテミスといっしょに過ごした時間や
かわした言葉のすべてを、あなただけが知っているのね」そう言うと、フラウディーテはまぶしそうに、もういちど微笑みました。
木に話しかけているのだとわかっていても、梢にいるリトからすれば、まるで自分に話しかけられているようです。リトの心は、ぽっと桃色に染まりました。
なにかしんぱいごとでもあるのでしょうか?
ふいに、フラウディーテの表情が、くもりました。「木さん、わたし今日こそは、ほんとうのことを
エルテミスに打ち明けようと思うの。
だけど、こわくてたまらない。
わたしが宮殿の小間使いではなく
この国の王女だって知ったら、
彼はどう思うでしょう。きっと悲しむわね。
だから、今日まで言えなかったけれど、
もうこれ以上、嘘はつけないわ。
だから、見守っていてくれる?
打ち明ける勇気が、どうか消えないように」そのときです。かけてくる足音が聞こえてきました。エルテミスです。
ふたりの高鳴る胸の鼓動が、リトの心のバロメーターもはげしくふるわせました。
木のしたで抱き合うふたりの姿に、遠いカイとソラの面影が重なります。
はるかな時間と空間を超えて、消えた大陸の恋人たちが、いま目のまえにいました。生まれ変わるとき、過去の記憶はすべて消滅するものです。
エルテミスとフラウディーテに、カイとソラだったときの記憶は、おそらく残っていないでしょう。でも、ほんとうにそうなのでしょうか?
何も覚えていないのなら、なぜ、ふたりはまためぐり逢ったのでしょう。
そしてどうして、愛はふたたびくり返されるのでしょう。潮風が、葉をゆさゆさと揺らして過ぎていきます。
リトはしだいに、自分がオレンジの木と同化していくように思えました。エルテミスとフラウディーテは、木の根元の草のうえに腰をおろしました。
打ち明けるタイミングをさがしているのでしょう。フラウディーテはさっきからそわそわと、ひざにのせたオレンジの実を指でなぞっています。オレンジの木がもういちど、さわさわと風に揺れました。
やっと心を決めたようです。フラウディーテの花びらのような唇がひらきました。ところが、さきに話しはじめたのは、エルテミスの方だったのです。
「マイラ、今日はどうしても聞いてほしいことがあるんだ」
「マイラ? 」
はじめて聞く名にリトがとまどいの声をあげると、グノモンが答えました。
「リトさま、覚えておられませんか?
フラウディーテが宮殿の外に出られるように
身代わりになってくれた
勇気のある小間使いの娘がいたでしょ?
あの娘の名が、マイラというのですよ。
フラウディーテは、王女であることを
どうしてもエルテミスに言いだせなくて
つい、マイラの名をかりてしまっているのです」潮風にのって、エルテミスの声がまた木のうえに届いてきました。
その声には、ぴんと張り詰めたような独特の調子がこもっています。「マイラ、わたしが、かつてこの国と戦って敗れた
敵国の王子だったことは、もう君も知っているよね。
この国に連れてこられてからというもの、ずっと、
この国の王に仕え、過去を捨てて生きてきた。でも本当は・・・捨てたふりをしていたんだ。
マイラ、君にわかるだろうか?
思い出のなかの父や母、兄さんたちや小さな妹が
どんなに忘れようとしても夢のなかに出てくるんだ。
みんな殺されたんだよ!まだ、幼かった妹まで。
ひとりだけ助かって、この国に連れてこられたとき
もちろん、すぐに後を追って死ぬことを考えた。
でも、考えなおしたんだ。
ひとりだけ生き残ったということは、
やらなくてはいけないことがあるからだって」エルテミスの言葉を聞くうちに、フラウディーテのバラ色の頬は、みるみる青ざめていきました。かすれた声で、彼女がおそるおそるたずねます。
「やらなくてはいけないことって・・・」
言葉の最後はおそろしさのあまり、ふるえています。
ながい沈黙のあと、エルテミスの声がひくく響きました。「王に復讐する」
フラウディーテの心が、絶望に塗りつぶされていくのを、リトの心は見守っていました。ガラス細工の器のように、彼女の心のなかが、透けて見えます。
愛する人が殺したいほど憎んでいたのは、自分の愛する父親だったのです。
それは、すこし考えれば想像のつくことでした。けれど宮殿のなかの小さな世界で、悪意というものさえ知らずに育てられたフラウディーテには、父王がかつて、エルテミスの肉親をみな殺しにしていたなんて、思いもつかないことでした。
戦利品だと言って持ち帰ってくるたくさんの宝物や美術品のように、エルテミスのことも、むりやり連れて来たのだろうと思ってはいましたが、それだって、とてもひどいことです。だから、王の娘であることを、フラウディーテはずっとエルテミスに打ち明けられなかったのです。
でもまさか、笑顔しか思い出せないほど、フラウディーテにとってはやさしい父が、そんな非情なことをしていたなんて・・・フラウディーテの心は、怖ろしさと哀しみで、いまにもこなごなにこわれそうでした。
ふるえているフラウディーテの肩を抱き寄せて、エルテミスが耳もとで言いました。
「君に出会えてから、
過去は忘れて幸せになろうと何度も思ったよ。
でも、どうしてもできないんだ!
父や母、兄たちや妹のむごい最期を忘れるなんて。
夢から覚めるたび、一瞬でも忘れようとした
自分自身を、責めずにはいられないんだ。・・・近いうちに、王を暗殺する。
マイラ、もし成功したら、
いっしょにこの国から逃げよう!
もちろん、そのまえに殺されるかもしれない。
でも、だからこそどうしても、
君にだけは、先に伝えておきたかったんだ。
どうか、信じてほしい。なにがあっても、
君と出会って君を愛したことに嘘はなかった。
この気持ちは、たとえ死んだとしても変わらないよ」ふるえていたフラウディーテが、よろめくように立ち上がりました。
身にまとった白いドレープのすそが、風に舞って花びらのように揺れています。
青い海を見つめしばらく風にふかれたあと、ふりかえったフラウディーテの表情に、リトの心はハッと息をのみました。悲しみと苦痛に打ちひしがれていた表情が、澄んだ水に洗い流されたように消えていたのです。
エルテミスを見つめる瞳は聖母のようにあたたかく、口もとにはしずかな笑みさえ浮かんでいます。その唇から、やわらかな声がこぼれました。
「エルテミス、話してくださって、ありがとう。
この国に連れてこられた幼い日から
夜の闇のなかでたったひとり、
あなたはずっと苦しみつづけてきたのね
どんなにつらかったことでしょう・・・
わたしと出会ったことで、べつの苦悩も抱えたはずです。どんなつぐないをしても、
この国があなたの国にしたこと
あなたの愛する人たちを奪った事実は消せないわ。
でも神さまは、あなたが味わった苦痛をきっと
もうすぐこの国の王にも与えることでしょう」エルテミスが何か言おうとしてフラウディーテに近づくと、フラウディーテの指からオレンジの実がこぼれ落ちました。
すべての時間とすべての愛を込めて、
フラウディーテはエルテミスのもとにかけよります。
はるかな永遠につながる、口づけをかわすために。その接吻は、フラウディーテにとって別れを決意した最後の口づけだったのです。
心だけなら涙なんて出ないはずなのに、フラウディーテの想いを敏感に感じとって、リトの心はうるんでいます。まわりがぼんやりとかすんで、よく見えなくなりました。
そのとき、さっきフラウディーテの指から落ちて、
草むらにころがっていたオレンジの実が、
ふわっと浮き上がったのです。宙に浮かんだオレンジの実は、
青、赤、黄、橙、緑、藍、紫・・・虹の七色にめまぐるしく変化しながら
またたきはじめました。「あの日が、よんでいる!」
突然そう叫んだのは、クプカの声です。
クプカの心はなだらかな放物線を描いて、
虹色の光りのなかへ、飛びこんで行きました。